ハイコンテキストの時代

RAP GENIUS というサイトがある。

rap genius

ラップの歌詞のWikipediaというような内容で、ファンたちが歌詞を書き起こして投稿し、さらにはその歌詞の意味を脚注するという趣旨のサイトで、今非常に伸びているのだそうだ。
ぼくはラップの素養があまりないので体感的にはわからないけれど、ラップは歌詞に何重の意味を、音感的にも、意味的にも持たせているので、素人はそれが分かるようになるまで、奥深い魅力がわからない。この辺りで、コアなファンになるかどうかの分かれ道が訪れる。それを、ネットの向こうの皆が意味を教えてくれることで、より多くの人が一歩深いファンになっていけるのだろう。ファンも嬉しいし、裾野が広がることでアーティスト自身も嬉しい。アーティスト自身が脚注をつけてくれることもあるようで、コアなファンにとっても嬉しい、というWin-Win-Winなサービスだ。
サービス自体も急成長していき、今は文学やロックの歌詞へ派生しているとのこと。

ハイコンテキストを楽しむ

こうやって横展開していっているのをみると、このサービスの可能性に気付かされる。
作品それ自体だけではなく、その前提や隠喩となっているものや、作家の生き様などの文脈を理解した上で作品を楽しむことをハイコンテキストな楽しみ方というとすると、いろいろな分野でそういう作品が増えてきている。文学作品や映画、現代アート、アニメーションなんかも非常にハイコンテキストなコンテンツだ。少し前から美術館でオーディオガイドが借りられるようになって、作品を見ながら説明を聞けるようになったたが、そういうサービスはやはり需要があるのだろう。
勝手な理解だが、昔から教養といわれるものはこうしたハイコンテキストなメタ情報を求められるものが多い。文学、映画、演劇、、、なんでも過去の名作のオマージュやメタファーがあって、それで初めて評価されるという世界だ。(この辺のことは村上隆さんの本を読んで初めて理解できた。

芸術起業論

芸術起業論

インターネット(HTML)の目指していたもの

そもそもこうしたブログで本のや参考サイトのリンクを出している事自体がそうで、インターネット自体がそれを目指した
「Hyper Text Markup Language」で作られているのだけれど。
なので rap genius は当たり前なものなのだけど、なぜか新鮮味や可能性を感じたのが不思議で、その理由を考えたくなったのだった。
これはインターネットによる文化の民主化が起きて、これまでは一部のエリートが楽しんでいればよかったハイコンテキストな楽しみ方というものが、大衆の側にも広まったからのように思う。コンテンツ自体は昔からハイコンテキストにつくられていてあまり変わっていないが、消費者の側がハイコンテキストな楽しみ方に慣れてきたということだ。
無料のPodcastでコンテンツの裏の話や解釈を聞かせてくれるものも多い。
ラジオ版学問のススメ
鈴木敏夫のジブリ汗まみれ
狭くて浅いやつら

こうしたガイドが気軽に楽しめて、コンテンツのコンテキストを楽しむ人が増えたということもインターネットが文化に与えた一つの影響なように思う。

次のガイドは

ガイド紹介の手段もテキスト、オーディオときているから遠からずビデオに移っていくんだろう。Google Glassキラーコンテンツの1つはその辺にでてくるように思う。(なかなか始まらないスマートテレビがその前に来るかもしれないが。でもスマートテレビでやれる範囲はニコニコ動画がすでにやっている範囲をなかなか超えられないように思う。)

かぐや姫の物語

高畑勲ここにあり。ただただ圧倒されてしまった。

かぐや姫の物語 公式サイト


観終わった時、衝撃で言葉がでなかった。


高畑勲監督は78歳?とんでもない。これは、今、脂が乗り切った監督の野心作だ。何しろ映像に勢いがある。予告編などで使われている月明かりの下を疾走するシーンももちろん勢いはすごいが、それ以外の、野山での日常のシーンがすごい。それは決して全力疾走しているシーンではなくって(走っているシーンは多いが)、子ども達が野山をぴょんぴょん跳ね回ったり、皆で行進をしているシーンだ。こうしたシーンに言葉では言い表せない存在感とリアリティを感じた。


こうした野山のシーンを観ている間ずっと頭に浮かんでいたのは、黒澤明「七人の侍」「椿三十郎」といった映画の風景だ。あの白黒映画の中にある圧倒的な存在感が、ものすごく鮮明に頭の中に浮かび上がってきた。当時の日本映画の文法なのかもしれないが、大自然の野山の中を主人公やその一団が列になって行進し、それを少し引き目のアングルで撮って、ラッパを基調にしたリズミカルな音楽が流れるような、あの感じ。それを観ているとなぜかすごく高揚感を感じ、(時代劇なので)ああ、昔の日本ってこんな感じだったんだなあ、、、なんて思いを馳せながら胸が高鳴る感じ、とでも言うのか、それと全く同じ感じが、まさかアニメーションを観ている中で感じられるとは思わなかった。もしかしたらそれは古き良き日本映画の文法なのかもしれないが、ぜんぜん古くさい物ではなく、逆にこうした高揚感を感じられることこそが、エンターテイメントとしての映画の役割なんじゃないか、と思わされた。


また感性はむしろ若い。これも一昔前の日本映画の文法かもしれないが、「幕末太陽傳」を観た時に感じた勢いが、室内を駆け回る登場人物から感じられた。子どもが家の中をドタバタ駆け回るあの感じや、翁が嬉しさに屋敷内を駆けるあの感じが、生き生きとした庶民として描かれていた。


書いていて思ったが、本作は「飾りなく活き活きと生きる庶民」が、本当に鮮度よく描かれていた。
それを観ていることで、なぜか心が弾み、エネルギーやパワーをもらった気分になれるのだ。日々の生活を慈しみながら、決して楽なことばかりではなくても、日々の暮らしを大切に過ごすことが、どんな極楽浄土よりもすばらしいことであるというメッセージが力強く伝わってきた。


ぼくは鈴木敏夫さんのポッドキャスト鈴木敏夫のジブリ汗まみれ)を初回からずっと聞いてきているので、この作品を作るためのジブリの方々の努力や苦労をなんとなく聞いているが、そうしたご苦労も報われるであろう、本当にすばらしい映画だった。

電子書籍の読み手の未来

iBooksがバージョンアップされ、iBooks Authorが発表されたこともあって
電子書籍が本格的になるのかなーということが頭をよぎった。

たまたま今週は本を3冊ほど読んでいた。

ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女 (上) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女 (上) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女 (下) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女 (下) (ハヤカワ・ミステリ文庫)

敗者のゲーム(新版) なぜ資産運用に勝てないのか

敗者のゲーム(新版) なぜ資産運用に勝てないのか

それと同時期に年間購読していた溜まっていた電子雑誌も流し読んだ。
MAGAZINE | WIRED
National Geographic Magazine Subscriptions | Official Site
さらに、日曜日の朝にやっている将棋番組を見た。
NHK囲碁と将棋 -NHK杯テレビ将棋トーナメント 棋譜再生-
そのあとで、iBooksのバージョンアップをして、サンプルの電子書籍を眺た。

といった一連の体験をしたときに、自分の感覚として「紙の本と電子書籍は別物だ」ということを感じた。


電子書籍には、文字以外の映像・音を盛り込んでいたり、イラストを触ると動いたり音が出たりするといったインタラクティブ性のあるものが多い。これを「読んでいる」感覚は、どちらかというとテレビをみている時の感覚に近い。iPadで読んでいるものが英語なので字をじっくり読んでいないということもあるが、1つのページ内に映像があると注意はどうしても映像の方にいってしまう。字を読もうと集中していても、映像やインタラクティブな操作に気を取られてしまうのだ。なのでじっくりと文章を読んで、頭の中に映像を思い浮かべるということはしづらい。というか、映像や写真がふんだんに盛り込まれているので、自分で頑張って思い浮かべることをしなくなっている。

一方旧来の書籍は、基本的に字ばっかりだ。この場合、字を読んでいって頭の中で映像をつくって流している。無意識のうちにそういうことをしているのだということを、将棋の解説を聞いているときに気づいた。解説で「二5歩」「同金」とか言っているのを聞きながら、それを頭の中で再現するのは結構大変だ、と感じたときに思いついた。本を読む時の感覚は自分にとって当たり前のもの過ぎてあまり意識していなかったが、本を読むのも慣れてないと結構しんどいのかもしれない。
(というのも「ミレニアム」はかなりページいっぱいにが活字で埋め尽くされており、最近テレビばっか見ていたせいか、慣れるまで本を読む結構しんどかったかのだった。。。)
テレビやゲームをみていると、想像しなくても映像を与えてもらっちゃってるからなあ。


この一連の考えが自分の中で繋がったときに、最近、活字離れが進んでいるという話題を思い出した。
少し前に、知人の方から新聞がこの10年ほどの間で活字のフォントサイズを大きくして、情報量が30%近く減っているという話を聞いたのだ。また書籍についても、1ページ内の文字数を少なくしたほうが読者層が広がるので、本の中の文字数は減少傾向にあるという話も聞いていた。最近はマンガのコマ間の間を保管できずにストーリーを理解できない人が増えているという噂話どっかのサイトでみた。


活字だけを読んで情景を頭の中で思い浮かべるということは、それだけでスキルになりつつあるのかもしれない。


電子書籍が日本で普及するかどうかは分からないけれど、著作権の問題云々があるから既存の本がそのまま移植されるということにはならなそうだ。そうすると、逆に大手が参入してこないことをチャンスとして「新しい読書体験」を提供する人たちが参入してくるだろう。というか、そうなってほしいと思っている。
ただそうするとターゲットが若い人になるだろうから、また普通の本とは違った種類のコンテンツを提供しようとするだろうから、きっと映像やギミックが多用された雑誌のようなものになっていく気がする。まあ、これもそうなってほしいと思っている。WIREDみたいなのが日本に早くできてほしい。
でもそうやってできる電子書籍は、これまでの「本」とは違うものなんだな・・・、と思ったのだった。


進化とは環境によって自然淘汰が行われ、何世代か経過した後に結果的に形質的な特徴が変わっているということだ。進化自体は、良くなることでも悪くなることでもなくって、その環境ではたまたまその遺伝的特徴が生き残ったというだけ。
電子書籍は進化した書籍として、紙にとって代わっていってしまうのか。
消費者は易きに流れるという意味では、あと20年くらい経ったらその方向性が濃厚な気がしてしまった。


電子書籍はどんどん普及すればいいとおもっているが、「読書体験」自体が大きく変えられようとしていることに気づいたので、紙の本もちゃんと残っていってもらわないとなあと思った。まあガジェット側ももっと頑張ってもらう余地があるかもですが!

TEDxSeeds 2011 会場の雰囲気

 今年も TEDxSeedsのスタッフとして本会議運営のお手伝いをさせてもらった。

TEDxSeeds

僕の担当は飲食の準備ととおもてなしであったので、カンファレンスが行われているホール外での仕事が多く、今年も当日登壇者のスピーチを直接聞いてはいない。


 会場の中に入る機会があったのは、セッションの間にクラスフォトというスタッフ含め300人近い参加者全員の集合写真を撮るイベントの時。直前のセッションが終わる数分前に会場の中に入った。その時は、ちょうど佐藤康雄さんの話が終わろうとしている時だった。


 会場内の最後尾の壁際に立っていてるだけで、その場にいる皆が息を詰めるようにして佐藤さんの話を聞いていることが伝わってきた。張り詰めた空気がそこにあった。会場全体が集団催眠にかかっているような錯覚を覚えた。そこだけが別世界であるかのように、会場内は強い集中と不思議な一体感で支配されていた。

 スポットライトは舞台に当たっていて、話を聞いている参加者席側は暗くなっている。だが、いちばん後ろに立っている自分が照らされているかのような眩しさをおぼえた。
 それで少し、我に返った。
 佐藤さんの話を聞きながら、会場内の張り詰めた空気のことを思った。300人の中で一人しか声を発していないのに、そこにいる多くの人々が発する熱気を感じる。皆が食い入るように話を聞いている。その強い眼差しのすべてが、共感の心をもって注がれていることが、この一体感をつくりだしているのだろうと思った。


 それは佐藤さんを始めとした登壇者個人のもつ力でもあるし、今日のためにしつらえられたこの赤レンガ倉庫の舞台の力でもあるだろう。また限られた意識の高い参加者全員の好奇心と、開放的で前向きな精神性にもよるのだと思う。これがTEDというものが目指しているもの、アメリカで開催されているTED本体に参加してきた人が言っていた、表現しがたい一体感に近いものなのかもしれない。この場に来て、思いを伝えること。この場に来て、新しいアイディアを受けること。それらの意味が、少しだけ分かったような気がした。


 時間にして数分ではあったが、佐藤さんのお話を聞いていて目に涙が滲んでいる自分に気づき、驚いた。だが佐藤さんのお話を聞いた人たちの多くが、涙が止まらなかったという感想を言っていたので、これは自然な反応だったのだろう。

 お話の内容はどの方のものも、興味深くて、すばらしい。それは直接動画を見ていただきたい。
TEDxSeeds - 佐藤 康雄
(特に佐藤さんのお話は、僕には解説するようなことはできず、
 ただ見ていただきたいと思います。
 こういった方々に、日本が支えられているということを再認識し、
 命の大切さと命を救おうとしている方々の真剣さを知ることができたと思います。)

 TEDxSeedsの本会議への参加は限られた人数の方しかすることができないので、動画だけではなかなか伝わりにくい、会場の空気を少しでも伝えられることができればと思い、ほんの数分の間であったけれど、鮮烈に感じた印象を書いておいた。

※この写真はセッション後のクラスフォト撮影中です。

イギリス暴動に思うこと

炎上し暴徒が叫ぶ、故郷イギリスの今 - Time Out Tokyo (タイムアウト東京)
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20110809-OYT1T01091.htm

イギリスの暴動のニュースは耳を疑うようなことだった。
ドル破綻のカウントダウンかのような株式市場の暴落が続いていた中で突如として起こったイギリス内の暴動。ドルがどうなるのかとここ数日間は不安を感じさせるようなニュースが流れていたところだったので、この暴動は最初そうした金融不況の影響によるストライキなどかと思った。


だが職のない若者たちや移民たちといった人々の鬱積した不満が爆発したというような類のものであるようなので、直接的な関係はないように思えてきた。


幾つかニュースを見ていく中で衝撃的な印象を受けたのが、このツイート。

エジプトのジャスミン革命のようではないか。。

SNSの功罪、ツイッターFacebookの危険性というようなお決まりの批判がこれからたくさん言われるんだろうなあと思いつつも、仲間内の連絡には携帯電話を使うのと同じような感覚で FacebookTwitter を使っているというのは当たり前のように思う。


とはいえ SNS の伝播のしやすさが、最初は数人の中で爆発した怒りをそれまでくすぶっていた周囲の人々へと届けるツールとなったという一面はやはり捨て切れない。
ミーム意伝子)について論じた本で面白い思考実験があった。


人口数百人程度で、都市化も進まずに住民がみなのんびりと暮らしている島があった。大した産業もないが、島の人々は農業と漁業で自給自足の生活を送り、みな大らかで幸せに暮らしていた。
ある日、島にテレビやラジオ(今ならインターネット)が開通し、島の住人は毎日テレビを見るようになった。(アメリカの放送が流れてきたとしよう。)
ニュースからは全米で今日一日で何十件、何百件の殺人事件が起きたという報道がさかんにされ、強盗なんて日常的に起きていることが日々伝えられる。


それまで島の住人たちが属していたコミュニティーでは殺人事件は10年に1度くらいしか起こらなかったが、テレビ(インターネット)が彼らの所属するコミュニティーを変えてしまった。今や彼らが所属するコミュニティーでは年間に何前人もの人が殺されるのが当たり前の世界になってしまった。


その結果、人々は自衛のために銃をもつようになり、強盗、殺人事件も増えてしまった。。



これは思考実験ではあるが、多分に事実を捉えている所があると思う。


自分がバーチャルに所属するコミュニティーを変えてしまうという意味で、メディアは強い力を持っている。従来のテレビ、新聞といったマスメディアは、プロパガンダという大きな強制力はあったが、なんらかの検閲機関を通って情報が配布されていたので、こうした暴動などについては抑止の方向にはたらいた。

一方、個人メディアの集合体であるインターネット、SNS は個々人の感情がストレートに伝えられ、時としてそれがマスメディア以上の力を持ってしまうがために、何かのはずみで多数の人の思惑を一気に一つの方向へ傾けてしまうことがある。

集団の心理が、これまでよりも非常に敏感にどちらかへ傾くようになってしまったということだ。
もうちょっと例えて言えば、これまでは非常にゆっくりと、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしていた牛が、闘牛のように荒れ狂い、ちょっとした刺激でそちらの方へ猛突進するようになってしまったように感じる。大衆が感情のまま振る舞うことで、国を脅かす時代に入ったとも言える。


僕自身、インターネット、SNS がないと生活に支障が出るくらいヘビーユーザーだ。なのでネット・SNSを否定する気は全くない。今更ネットがない社会を考えることも無意味だ。グレートウォールをつくるという考えにも、個人的には賛同しない。自由な空間であるからこそのネットだからだ。
だから僕達一般大衆の一員は、もっと賢い大衆にならなければいけないと思う。



国家の「民度」が問われる時代が始まったのかもしれない。
「一億総中流」であり、炎上、2chといったネットがもたらすネガティブな反応を体得し、東北大震災では世界を感心させた民度を見せつけた日本は、人心の安定という意味で世界を牽引できるだろう。
あまり誇れることではないように思っていたものが、意外と強みだったりするのだ。

bot化する人間

WIRED(アメリカの方)を購読して iPad で読んでいる。
英語なのでそんなにスラスラ読めないが、この記事が面白かった。

Wired [US] August 2011 (単号)

Wired [US] August 2011 (単号)

Social Immortal -STEVEN LEVY (WIRED 19.8)

要は最近 Facebook で自分のお気に入りを「いいね!」して、Twitter でニュースにちょっとしたコメントを書き(Microsoft に皮肉をいい)、Foursqurare にチェックインする、という日々を送っている筆者がある日、サファリパークのサイに潰されてしまって更新ができなくなったとしても、こうした日々のソーシャルメディアの活動はある程度パターン化しているので、bot が自動でやってくれる日がくるのではないか。ソーシャルメディアという切り口だけで見れば、チューリングテストに合格する人工知能が生まれる日は近いのではないか、という感じ。

チューリングテストWikipedia より)

人間の判定者が、一人の(別の)人間と一機の機械に対して通常の言語での会話を行う。このとき人間も機械も人間らしく見えるように対応するのである。これらの参加者はそれぞれ隔離されている。判定者は、機械の言葉を音声に変換する能力に左右されることなく、その知性を判定するために、会話はたとえばキーボードとディスプレイのみといった、文字のみでの交信に制限しておく[1]。判定者が、機械と人間との確実な区別ができなかった場合、この機械はテストに合格したことになる。

確かに自分が Foursquare に登録するところもある程度決まっている(ランチが9割なので)。残り1割が旅行や飲み会という感じなので、都内近郊のそれっぽい人気スポットをランダムに振り当てれば、きっと誰も気づかないだろう。


FacebookTwitter では、最近のニュースや友達のコメントのうち、ある分野(先端技術など)を「いいね」したりリツイートしていればよい。たまに「お疲れ様ー」みたいなコメントでもしていれば良い。


実際こういうことをやっている bot ができたら、本当に気づかないかもしれない。


しかしもう少し考えてみると、これは逆に人間の側がソーシャルメディアというフォーマットに合わせてしまっているために、退化しているともいえる。


これからのソーシャルネットワークは参加しているユーザーの数ではなく、ソーシャルネットワーク上でやりとりされる情報の量が勝負のフェーズに入ってくるというようなことを Facebook のザッカバーグが言っていたが、企業側はユーザーから情報を引き出すために、どんどんUIを簡単ににしてくる。
Facebook の「いいね!」であったり、Twitter のリツイートであったり、Foursquare のチェックインであったり。ほとんどがワンクリック、ワンタップで済んでしまう。


それだけ情報は単純化され、日々そうした情報を受け取り、発信し続ける僕たちもまたどんどん単純化していく。そうして人間個々の思考は規格化され、ソーシャルネットワーク全体を形作る部品のようになっていく。。。
というSFのような世界が待っているのかもしれない。


もちろんこれはいろいろと極論が入っているし、ソーシャルネットワーク企業もそういう方向に進んでいきたいと思ってはいない(と思いたい)だろうが、個々の人間としては気をつけておくべきことだなと思う。

金閣と銀閣と苔と人について

天神祭に行く前日に、京都の金閣寺銀閣寺をみた。


前に訪れたのは中学校の修学旅行の時だったように思うが、その時は銀閣寺のほうがいいな、と思った。実際に、この両方を訪れると銀閣寺のほうがいいという人の方が多いと聞く。今回も、また銀閣寺のほうがいいなと思った。


それが何故なんだろうと少し考えてみた。
絢爛豪華な金閣寺よりも、わび・さびを表現している銀閣寺のほうが通な感じがするから。
それもあるだろう。少なくとも中学生の時にはこれがほとんどだったと思う。


ただ、今回は少しだけ違う感覚があった。銀閣寺へ行く途中に乗ったタクシーの運転手さんに、銀閣寺の方が苔庭がすぐれていると言われたことが引っかかっていたのだと思う。銀閣寺は苔寺として有名な西芳寺などの庭園を設計した夢窓疎石の庭に習ってつくられているそうなのだ。

夢窓疎石

夢窓 疎石(むそう そせき、道号が夢窓、法諱が疎石、建治元年(1275年) - 観応2年/正平6年9月30日(1351年10月20日))は、鎌倉時代末から南北朝時代室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧。七朝帝師。父は佐々木朝綱、母は平政村(北条政村か?)の娘。
世界遺産に登録されている京都の西芳寺苔寺)および天龍寺のほか、多くの庭園の設計でも知られている。



そう、自分は「苔」に惹かれていたのだということに気づいた。
「苔」自体はそれだけで美しいと思うし、心が安らぐ。だが苔が地面を覆う状況になっているというのは、そこにそれだけ安定した生態系ができているということを意味している。その背景を含めて、苔に覆われた地面を見ると美しいと感じるのだと思う。


だがこの苔の自生にもパターンがある。
自然に自生している場合と、人が手を入れている場合とだ。


屋久島の白神雲水峡に行った時、山肌を覆う苔は本当に神秘的で美しかった。ちょうど今回訪れた中でも、法念寺というお寺の山門に生えていた苔は、人の手を介さずに自生していて、それが林の中の静かな寺とよく合っていた。


一方、銀閣寺の庭園の苔は人が手を入れている苔だ。

屋久島のような特殊な環境でもない限り、苔が山肌を覆うということはなかなか無い。十分な湿気がなければすぐに枯れてしまうだろうし、より生育力の強い雑草を放っておけば一気に地面を乗っ取られてしまう。
だから、この苔は人が手入れをして保っているのだ。
見ていると、職員の方が小さな熊手を使って苔の上に落ちた枯葉などを丁寧に掃除していた。こうした人達が、何年も、何十年、何百年かけて銀閣寺の苔を保ち続けてきたのだ。


建物だけをとりあげればどうだろう、銀閣寺の建物もそれほどすばらしいものだとは感じられなくなっていた。だがこの生きた庭、そしてそれを何百年も保ち続けている伝統が、この寺を素晴らしいものだと感じさせているのではないだろうか。


余談だが金閣寺も裏山は広大な苔の丘がある。苔の写真をもっと撮っておけばよかったのだが、この日は一眼のカメラの電池が切れてしまって、写真を余り頑張って取るモチベーションがなかった。もったいないことをした。


だが、金閣寺銀閣寺へ行かれる方はゆっくりと苔をみることをお勧めしたい。


これは天神祭に行ったときにも感じたことだが、京都大阪という悠久の伝統を持つ街の魅力は、荘厳な建築物や仏像にではなく、往時を思い起こさせる儀式、伝統、所作、そうしたところにあるのだと思った。
受け継がれる文化の美しさのようなものを感じられた気がした旅だった。