ぼくはてんさいかのう

ぼくはてんさいかのう

ぼくはてんさいかのう

「この本は、脳性麻痺により知能、肢体に生涯をもった栗栖晶くんの
二十歳の記念に出版されたものです。」
目次の前に、こういうことが書かれている。


この事実をふまえた上で、詩を読む。
確かにそれは事実であり、隠すことでもなんでもないのだが、
一種、そういった偏見を持った上で詩を読む感じになるのかなぁと思っていた。


だが本書は、
「そういう人が書いたんだ、すごいね」
という感想だけを抱かせるだけのものではない。
読んでいるうちにその独自の世界に引き込まれていたし、
飾り気のないことばたちが、荒削りな、強い力を放っているのだ。



本書は「詩集」というよりも、
特に前半部は、著者の日常の出来事がつづられた日記である。
だが不思議なことに、
ひらがなで書かれた日常の出来事と、
そのつど発せられる思いを読んでいると、
自分自身が著者の日常を追体験しているような気分になるのだ。

・・・・・・三月十六日


きょう ハナコにしんぶんをよんであげました
ハナコが えらいね といいました
ぼくはえらいよ といいました
ハナちゃんもえらいね といいました
ぼくはハナコに らいねんもへいわまらそんがんばるけーね といいました
らいねんはおかあさんとはしります
がんばるとちかいました

著者の顔は見たことがないが、
読んでいるうちに頭の中には、
「ぼく」も「おかあさん」も「ハナコ(ハムスター)」も、
部屋のなかの様子も、「ぼく」がしんぶんをよんでいるうしろ姿も、
目にうかんでくるような気がするのだ。


著者「あきらくん」の言葉は、ストレートだ。
なんの仮面もかぶっていないので、思ったことを包みかくさずにそのまま表現して、
それをそのまま書いているので、彼の感情が正直に伝わってくる。

・・・・・・十月二十七日

きょう おとちゃんがあそびにきました
ぼくは かえれー といいました
おかあさんがおこった
ぼくはまた かえれー といいました
いけん とおもいました
ぼくはひとりであそびたかったです
ぼくはなきながらかきをたべました
おかあさんが みんなとあそびなさい といいました
ぼくはかなしいです


よんでいるうちに、
自分も「あきらくん」の周りに生活しているような、
そんな気分がする。
(小学生の時に同様の障害を持ったクラスメートがいたので、
ぼくには雰囲気が想像しやすいのかもしれない)


自分を振り返ってみると、
社会に出て仕事をしていく中にはイロイロな思惑があって、
日頃思ったことを全部 吐き出しているかといえば、
全然していないなぁ、と思いしらされる。


「あきらくん」のそばにいくことでそれに気づかされ、少し癒された気がした。



それともう一つ。
「障害」という言葉は、あくまで既存の人間社会に適合するか否か、
という面で見た場合に障害があるということだ。
人間として障害があるというようなこの言葉は、
あまり好きになれない。


生物学的に見れば、
脳の遺伝子のいくつかが「進化」を試みた結果なのだ。
それが環境に適合するかどうかの話。
結果、「あきらくん」には、
動物と通じ合える能力が大人になっても残っているのだ。

いえにかえってから ピーターにあいにいきました
ピーターはだんごむしがすきなのです
ピーターに ぼくはくりすあきらです というて じこしょうかいをしました
ともだちになってもらえませんかー といいました
するとピーターは おことわりします といいました
ひとのいえにくるときには みやげぐらいもってこい
と ピーターにちゅういをされました
はいわかりました
こんどだんごむしをもってきます といいました
ピーターはなんさい? ときいたら
わからん といいました

ここに出てきたピーターは、近所で買われている合鴨とのこと。


他にも猫の「アコ」や「ひめ」との交流など、
本当に心が通じているようなやり取りが描かれている。


以前にテレビだったか研究関係の何かで知ったことで、
「人間の子供は生後数ヶ月以内(詳しい数字は忘れた)であれば、
動物の個体を識別することができる」そうだ。
たしかサルの固体の識別てすとをやっていた。


大人になって、脳が「成長」していく過程で
「他の動物の顔を識別する」という能力は、「普通」のぼくらからは失われていくらしい。


だが、この詩集を読んでいる限り、
あきらくんにはそれが確実に残っている。
それ以上に、動物と通じ合う何かも、残っているのだと思う。



そう、「残っている」のだ。
ぼくらはみんなそれを持っていたのだと思う。


ぼくは子供の頃、よく一人で遊んでいた。


三国志を読んで一人で1800年前の中国に飛んでいったり、
昔広かったうちの庭の中の、ファンタジーの世界にいって遊んでいた。
今も、たまにあの頃に感じていた空気感を思い出せることはあるが、
とても短い時間でそれは消えてしまう。
社会に適合するにはあまり必要のない能力だとは思う。
でも、しあわせになるためには重要な能力だと思う。


このあいだ町を歩いていた時に 5,6才の子供が、
「なにか」を追いかけて、かけまわっているのに出くわした。


その子の目線の先を追っても僕には何も見えないのだが、
彼は明らかにその「なにか」を見つめていて、
「うー」とうなっているように口を尖らせながら走っていた。
戦闘機に乗っていたのかもしれない。
僕には分からなかったが、
その子にとって、その時間は、彼が浸っていたその世界が現実なのだ。



子供の頃にすぐそこにあった「なにか」に、
あきらくんはいまでも触れているし、ぼくにそれを思い出させてくれた。
「あの頃」の時間感覚に浸れる体験だった。


ぼくはてんさいかのう 新装版

  • 著:くりす あきら
  • 出版社:径書房
  • 定価:2100円
livedoor BOOKS
書誌データ / 書評を書く