藝大120周年コンサート


実家に帰っていたときに、
オーケストラ・コンサート<藝大120年をふり返って>
に行ってきた。


歩いていける距離に住んでいながら、藝大に入ったのはこれが初めてだった。


フルオーケストラを聞いたのも、初めてに近い。
いやー、なかなかすばらしいですね、オーケストラって。
音楽はど素人で、中学、高校と音楽の成績は悪かったですが、
観て楽しむこともできるんだなーというのが発見。


のだめカンタービレ」を読んだおかげか、指揮者と演奏者のやりとりを観ているだけでも十分に楽しめた。
あ、きっと「バイオリンもっと主張して!」みたいな感じなんだろうなー、なんて思った。



曲目も「第9」だったので、わかりやすかった。
第9は、僕が唯一自分でお金を出して買ったCDなので、
これはi-podで何回も聴いていて、ある程度、流れも覚えていたのも楽しめた要因かな。

2002 小澤征爾 歓喜の歌 [DVD]

2002 小澤征爾 歓喜の歌 [DVD]

(これはDVDですが。。。)



今回は小林 研一郎さんの指揮で、CDは小澤征爾さん指揮。
これが結構違うのです。
その辺がまた、面白かった。


例えば、「間」。
音と音との間の一瞬の静寂の間(ど素人なので、第何楽章とかは全く分かりません)。
これが小林さんと小澤さんとで違った。
今回の小林さんの指揮の方が、明らかに長かった。一秒間くらい、明らかに完璧な沈黙が流れる。
会場にはおそらく1000人くらい人がいたと思うのに、
それらの人たちの衣擦れの音さえも聞こえない、一瞬の静寂。
それがとても印象的だった。


クラシック音楽コンサートが、ずっと愛されてるのは、こういうところに楽しみ方があるのかなと思った。




そう、こないだテレビでやっていた「のだめ」を観て思ったのだけど、
指揮者は何十人も同時に演奏している中の一人が音程を少し誤ったり、
テンポをずらしてもそれを聞き分ける能力を持っている(らしい)。
きっと演奏者もしかり。
すごい人ほど、楽譜に書かれた通りに、指揮者の要求通りに音を再現できるはず。


要は、「トップアーティストは機械みたいに正確」なのだ。


でも、正確に決まったことを再現するのは機械が得意なことだ。
楽譜に書いてあることを完全に再現するのであれば、
コンピューターの打ち込み音楽でできていくだろう。
いずれ、初音ミク鏡音リン・レン達がもっと上手に歌うようになれば、
ますます「正確」な音楽に人間は不要になっていくだろう。



そういう世界で、芸術はどうやって生きていくのか?


そんな疑問を少し持っていたが、今回のコンサートで1つの答えを観た気がする。


トップアーティスト達は皆、「機械みたいに正確」な技術を持ちながら、
それぞれの「味」を出しているのだ。
コンサート本番ではきっと指揮者の要求と演奏者の演奏のせめぎ合いだったりがあって一つの音が生まれて、
そこに会場の雰囲気も関係して、毎回違う演奏をしている。


これがライブの醍醐味なのだろう。
それを観て、聴くという場にいて、2,3時間過ごすということに
3000円払う価値は大いにあるなと(藝大なんでこんなに安いのだと思うけど)。


そう、「ライブ」であることに価値があるのだ。(ライブCDでもいいけど)


幕間で藝大の学長さんの挨拶があり、それが印象的だった。
「藝大も法人化したため、これまでのようにお金をただつかうだけというわけにはいかなくなった。
 芸術をみなさんに伝えるためにこういったコンサートを続けていきたいが、
 それにはお金がかかります。藝大を今後ともよろしくお願いします。」


ユーモアを交えた素敵なスピーチだったが、
自分が学生時代に考えていた「基礎科学の研究費をどうやって捻出するか」という問題と同じだなと思った。
生活をするためには、ものをつくるには、コンサートを開催するには、
何をやるにせよ、プロがそれを続けるにはお金がかかる。


欧米では基礎科学も芸術も、パトロンがつきやすい。
日本にはあまりそういう文化がない。


なので、芸術が生活に進出してくるのは、モノ余りのこれからの時代には好ましいことだ。
今回のコンサートは、その実現例として、とても希望が持てたしよかったなと思う。


これまで「芸術」といってしまうと一般庶民からするとあまり縁のない感じだったけど、
こうやって敷居を下げてくれると(藝大コンサートでいえば安いということ普段着で気楽にいけることかな)、
裾野はどんどん広がると思う。
音楽以外にも芸術で食べていくのは現状かなり高く険しい道だと思うが、
その辺が変わっていけば、(製造業だって元をたどれば職人芸なのだから、同じようにできるだろう)
もっとハッピーな人が増えると思う。