体験の共有と、「覚える」「理解する」


仕事柄、今はまだ無いもの(システム)の説明をする機会が多い。


先日、他部署の同僚に今作っているシステムの仕様を説明した。
最初は口頭で、
次にデータ構造を絵に描いて、
最後には今動いている部分を動かして見せた。


結果、
「なーんだ、そういうことか。最初っから見せてよ。」
とのこと。


自分の説明する力量が足りないということは話の都合上置いておいて、
人に何かを理解させる時、実際のものを見せる、実際に体験させる、
ということが一番手っ取り早い。


百聞は一見にしかず。
文章だけの一次元的な情報量からすれば、
実体験は五感を全て作動させるのだから、当然なのだろう。


ミーム・マシーンとしての私〈上〉

ミーム・マシーンとしての私〈上〉

ただ、「ミーム・マシーンとしての私」を読んでいる感想からすると
こういう仮説も立てられる。


ミームの目的は自身を模倣してもらうことであり、
体験の共有、疑似体験という行為は、それ自体、広義には模倣だ。
つまり、ミームの増殖に適した行為(疑似体験)が、
学習(記憶形成)のプロセスに反映しやすいように
人間の脳も進化(自然淘汰の結果)されてきたのではなかろうか。



まずは、本文中でドーキンスの言葉として述べられているミームの定義を。

いまだに文化的な原始のスープのなかに不格好に漂ってはいるが、
私たちの目の前にもう一つの自己複製子がある
−それが模倣の単位である。


そう、ミーム模倣されることで
はじめて自己を増殖したということが、客観的に認められることになるのだ。


この定義の基に考えると、
ミームはどうされたら嬉しいか(=どういうミームが生き残りやすいか)。


確実に「模倣」という行動をとってもらうことと(一次の伝播)、
それが継続的に繰り返されること(二次伝播の可能性が残るから)だろう。


ちょっと強引な展開だけれど、
模倣という行為自体を、最低でもまず一度やってもらえる「疑似体験」というプロセスは
ミームにとっては、なかなか魅力的ではないだろうか。


実際にやってみることで、
すぐ消えるかもしれなくても少なくとも一回は、「模倣」をしてもらえるわけだ。


話を聞くだけの場合、ミームにとってのリスクは高い。
理解してもらえなければ全く伝播しないし、
たとえ理解してもらったとしても、実際に行動として「模倣」してくれないかもしれないのだから
(この場合の「模倣」は、実際に体を動かすだけではなく「思考の模倣」も含みますが)。


なので、最低一回は模倣してもらえる「疑似体験」プロセスは価値が高い。


そして次は継続的に模倣を繰り返してもらうという部分。
つまり、疑似体験をすると、なぜ記憶しやすくなるのか、理解しやすくなるのか。


証拠も途中の仮説もまだ思いついていないけど、
ミームが「脳」進化の淘汰に対して大きく影響してきたと考えられるのではなかろうか。


そもそも人間の脳(大脳皮質とか前頭葉とかそういった高次機能部分)って、
遺伝子的進化だけで考えていいものなのだろうか?
遺伝子的に有利な脳であれば、
なんで考えるだけでエネルギーを消費するのか?
それは絶対に不利なはずだ。


ミーム・マシーンとしての私」にも、とても面白い一説があった。

あなたは考えることを止められますか?
(中略)
思考と思考の間になんらかの隙間が見つかるかどうか見るのだ。
もっとも単純な形の瞑想はこのような実践以上のものではない。
それはひどくむずかしいのだ。

なぜか?
(中略)
それらは単純なイメージ、知覚、あるいは感情であることはめったにない。
それよりむしろ、他の人間から獲得したことばや、議論や、観念が使われる。
言い換えると、ひっきりなしにやってくるこのような思考がミームなのである。
(中略)
脳に満ちあふれた世界を想像してもらいたい。
そこには、すみかを見つけることができるよりもはるに多くのミームがあるとする。
どのようなミームが安全なすみかを見つけて、
次に伝え渡されていく可能性が高いだろうか?
(中略)
「私が」自分に考えることをやめさせることができないのは、
無数のミームが「私の」脳の空間をめぐって競合しているからなのだ。


「引き紐の原理」というらしいが、
脳の進化は1本の引き紐の両端に、元気な犬がつながっていて
お互いが勝手に好きな方向に進もうとしている、そんな状態であるという仮説だ。


長くなってきたので、今日はこの辺で。