コネクティング・ワールド

今日は仕事に行ったのだけど、
本当は休日だったので休憩がてらにICCにふらりと立ち寄ってみたら
コネクティングワールドという企画をやっていた。


さらに、シンポジウムもやっていた。
ついてるな。
これも何かの縁なのかもしれない。
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僕が席に着いたときにはシンポジウムはすでに1時間過ぎていたのだけれど、
時間的には、まだ半分くらい残っていた。


パネリスト:


科学者や社会学者の人が出てきているのが面白い。
ICCはこういう懐の深い企画をしてくれるから好きだ。


・・・
ちなみにディスカッションの内容は、最初の30分〜1時間くらい全く分からなかった。
ちょっと寝てた。。
途中からということもあり、テーマが何かが分からなかったというのもある。
でも、パネリストの人たちも混乱していたようにも見える。


ただ、面白いのはここで話している内容、
「ネットワーク化している社会を把握する」というようなことは、
まだみんな、うまく言語化できていないのだ。


ネットワーク化という大げさな言葉を使わなくても、
僕らはそれをみんな体感している。
家族関係であったり、友人関係であったり。雲であったり、インターネットであったり。
この世の中に複数存在していてお互いに少しでも影響を与え合うモノは全てネットワーク化しているのだから。



僕もなんとなく、「あ、こういうことだな。」と思えたのは、
パネルディスカッションで、池上高志さんの発言から始まったこんな内容だ。

世の中がネットワーク化した暁には、
例えば政府が全国民をカメラで一日中見張っているようになる、
というような話があるが、それは怖くはない。
監視しているのが、隣のおじさんだったりすると、怖い。


法律をつくっているのもまた人間である。
そこに矛盾がある。


免疫システムの難しいところは、
免疫システムをつくっている「自己」にあたる要素と、
認識され、攻撃されるべき「他者」他者にあたる要素が同じものでできているところだ。

この辺の、なんとなくの感じがたまらなくひっかかって、興味をそそるのだ。


僕なりに解釈すれば、
世界がどんどんフラット化しているということになろうか。
(「フラット化する世界」読んでないな。読んどこうかな。。フラット化する世界(上)
以下、ちょっと考えてみたこと。



今、なんとなく浮かび上がろうとしている新しい概念は、
ネットワーク(「組織」と言いかえてもいい)を構成している一つの要素が
組織を作り変える力を持っている、というネットワーク。
トップダウンではない、ボトムアップ(全要素だからオールアップなイメージ)。
生物で考えると、人の身体の形は変わらないけど、
細胞は日々新陳代謝していてどんどん入れ替わっている、自分自身つくりかえているイメージ。)


そして、なぜこれが現代に考えられるようになったかというと、
自然界では当たり前だったこの現象が、人間社会にも適用されるようになったからだと思う。
民主主義の、一つの到達点に達しようとしている。


100年前を考えると、
組織や社会はすべて階層構造の、トップダウン型の組織だったのだ。
専制君主制だったり、階級制だったりの社会ではそれが当然だったのだ。
今の会社もほとんどがそうだが、階層構造のある組織があって、
(基本的には)組織の構成員一人一人が組織に与える影響力よりも、上の階層の少数の人間の影響力の方が強い。
組織はとても強固で、その構造はほとんど変わらない。
これが世の中の普通だった。
(会社は今でもそう。繰り返しだけど。。)


それが、誰でも政治に参加できる、
身分も階級も(一応)ない民主主義な社会が100年ほど続き、
社会の階層構造はだいぶフラットになってきた。
そこにインターネット社会が到来し、
(ネット世界の中では)本当にフラットな世界を体感できるようになってきたのだ。


国対国の戦争から、国対テロ、テロ対テロになってきたり。
これまで人類が経験していない、ネットワーク的な組織(人の集団に限らず)に
ヒトはどうやって順応していけばいいのか。
その辺が、イロイロな人が興味をかきたてられているところなのだと思う。
(この「弱いネットワーク的な組織」に何かいい名前が必要だな。。)



梅田望夫さんが「シリコンバレー精神」の対談で取り上げていたが、
オープンソースプロジェクトなど、本当にフラットな新しい組織だ。
ネットワーク科学的に、オープンソースプロジェクトに参加している人たちの結びつきを研究してみたら、とても面白いと思う。
新しい組織論をつくれるんじゃないか。



オープンソースといえば、池上高志さんの「オープン」の定義が非常に腑に落ちた。

オープンというのは、システムのある箇所が外部に接続可能になっているということではない。
そういう予定調和的なものではなく、予測不可能な外部からのゆらぎにさらされることなのだ。


パソコンで言えば、キーボードが外部にさらされていて
それを人がどう打つかはわからない。でも、それはそういうルールの中で動いていること。
オープンというのは、そのキーボードに醤油がどーっとかけられてしまう
といった、予測不可能な現象だ。


(正確な記述ではないけど、こんな感じのことを言っていた。)
「オープンであるというのは予測不可能なゆらぎにさらされていること」
ということが、オープン○○という言葉に対して、非常に明快な感触を与えてくれる。
「感触」と言ったのは、それが何かは予測不可能だから。