ウェブ人間論(2)

ウェブ人間論 (新潮新書)

ウェブ人間論 (新潮新書)

ウェブ人間とはどんなものか。


今の世代を生きている大半の人間は、純粋なウェブ人間ではない。
生まれたときからウェブというものが当たり前に存在していた世代が、
本当の意味でのウェブ人間の特質と言うものを兼ね備えているのだと思う。


ただ自分含めウェブのない世界で育ち、
今の環境変化に適応してきている人間にある特質・性質が、
おそらくウェブ人間の特質の要素として考えられると思う。


思いついたり印象に残ったキーワードは、

  • 思考構造の変化
  • 脱身体化志向
  • 社会の変化
  • 時間感覚の変化

といったところだった。

思考構造の変化

これまで自分としてもなんとなく体感としてはあったが、
文章としてよく表現されていたやりとり。

「ありとあらゆる情報がネットには流れているんだから、
必要に応じてグーグル行くとか、ユーチューブ行けばいいということで、
自分のところへわざわざ持たない、私有しない。
これからさらに、情報との接し方が、まったく変わっていくでしょうね。」

梅田さんが言われている感覚は、
僕自身そう思っていることで、ネット依存度が高くなるにつれ、強くなった。
ダイヤルアップでインターネットやっていたころは
いろいろな情報をせっせとローカルPCに保存していたが、
「所有」はハードディスク資源を投資する「コスト」と捉えているので、
今はなるべくローカルに保存しないようにしている。


一人暮らしの我が家には冷蔵庫がないが、
食べ物だったり飲み物だったりはほしくなったらコンビニや自動販売機に行けばいいので、
スペース、電気代という「コスト」に見合うリターンがないという判断なのだ(あまり家に居ないし)。
今は本も、一度読んだら場所をとるので売ってしまおうかなと思っている。
「所有」することがリスクであるという考え方にになっている。



一方、平野さんは

「ただ実際のところ何かものを考えようと思ったら、
まずその元となるような知識、要するに記憶があって、
それに従って考えるしかないわけですよね。
そうした時に、改めてそれを確認するような映像なり情報なりが
いつ消えるか分からない不安定な状態よりも、
手元にあった方がいいと僕なんかは思うんですけど。」

と仰る。
これも正論だし、人の思考はこうなっていると思う。


お二人の言葉を借りれば、
人の思考は頭の中の内部記憶の構造によって決まっている。


平野さんの思考法のイメージは、
この内部記憶がとても膨大に存在しているように思う。
パソコンでいえば、メモリが非常に大きい。


記憶力には自信がない自分は、
特にウェブを多用するになって
「覚えなくていいや、必要な時に調べればいい」という思考法になっている。
メモリをそんなに使っていない。



自分との比較でおこがましい話だが、
平野さんと自分の決定的な違いは、記憶方法ではないだろうかと思う(また平野さんの方は全くの想像なのだが)・・・。
自分の情報の覚え方って、ポインタのイメージなのだ。
情報のキーワードなりインデックス的なものを覚えておいて、
詳細はそれほど覚えていない。
こうやってしまうと外部記憶を使えない試験なんかには弱い、実際。


ただし、メモリ領域(記憶力)はそれほどなくても
ウェブとつながっていれば、メモリ領域が大きいという個人差を補完できる。


メモリ領域を大きくする努力はしなくてはいけないとは思うが(汗)、
人は易きに流れるので、こういうポインタ志向の内部構造をつくる人が増えるのではなかろうか。
いい悪いは別として。
最近の子はそろばんを習わなくなってたり、暗算が弱くなっているような。
個人の能力を、外部装置、ウェブでドンドン補完するように人は流れていくと思う。


これが人格にどのような影響を与えるか、というようなことは分からないが、
思考過程がある程度、似てくると思う。
いい悪いは別として。


ポインタという概念がない頃のプログラムにはあまり触れたことがないので
(今もJAVAしかやっていないのでポインタを明示的には使っていない・・・)、
ポインタあるなしによって、
プログラムのできること、内容、ロジックがどれだけかわっていったかは知らない。
が、それなりに進化(良くなることと同義ではない)はしたと思う。



ぜんぜん終わらないので、また続く。。。