坐禅(2)


法話は、100畳くらいある広い部屋で受ける。
70人でそこに移動して、正座して待つ。
前にはテーブルと、両端がガムテープで補修されたホワイトボードが置かれている。


やがて老師が到着し、足を崩してくださいと言ってくれる。
そこで、さっきまで坐禅をしていたところで使っていた坐蒲(ざぶとんのようなもの)の上で胡坐をかく。


これも事前に説明されていたが、法話の前にお経のようなものを皆で3回唱えることになっている。
事前に渡されたプリントを読みあげる。

開経偈(かいきょうげ)
無上甚深微妙の法は
百千万劫にも遭い遇うこと難し。
我れ今見聞し受持することを得たり。
願わくは如来真実の義を解せん。

お経のような感じで、皆が読み上げる。
全然 意味が分からないし、お経っぽい音程もわからない。
友だちの結婚式で教会の場合に、聖書の歌とかを、
よく知らないけど、なんとなく口は動かしてみる、みたいなあの感覚。


でも、僕はお経の響きだったりメロディーが好きなので、
結婚式の賛美歌の時よりは頑張って唱えてみる。


老師は年齢不詳。
老師というわりには若く見えるが、実年齢は高いのかもしれないな、という貫禄。
以前はハワイの支店(支寺?)に10年以上いらしたそうで、
英語交じりの法話は、ちょっとした落語を聞いているような感覚だった。
老師の方も、皆が少しでも楽しめるように、
話し方をいろいろと工夫されているように感じられる。


内容は、やはりよく分からないのだが
なんらかの経典の解説をシリーズで続けているらしい。


今回はこんな話だった。

四大を放って把捉すること莫れ
寂滅性中従って飲啄せよ
諸行は無常にして一切空なり
即ち是如来の大円覚

決定の説は真僧を表す
人あり肯わずんば情に任せて徴せよ
直に根源を截るは仏の印するところ
葉を摘み枝を尋ぬるは我能わず

漢文と読み下し文がプリントされていた。


四大というのは、「地」「火」「水」「風」の4つで
仏教世界での万物の構成要素のこと。
さらにこれに「空」を加えると、卒塔婆五輪塔はこの要素の組み合わせとしてできている。
そう卒塔婆といえば、、、


というような感じで、話は四方八方に広がっていき、
結局 経典の話の筋は僕にはよく理解できなかったが、十分に楽しい時間だった。
一時間くらいあったようだが、あっという間に過ぎる。



思ったのは、これが昔ならではの仏教の姿ではないかということ。
テレビで瀬戸内寂聴さんの法話の様子を見たことがあるが、
あの時も(主に)おばちゃんが100人くらい集まって、話を聴いていた。
エンターテイメントなんだと思う。


仏教が日本に根付いたのは奈良時代とかその辺だが、
それ以来ずーっと村に1つはお寺があって、信仰をあつめてきた。
その1つの原動力が、この法話なのではないだろうか。
そんな時代であれば(江戸時代くらいまでは)、
テレビはもちろんないし、本を読める人なんてごくわずかだろう。


その中で住職の法話というのは、家族皆で参加できる庶民の娯楽だったと思うのだ。
古典落語にはよく住職が出てくるが、
そのへんからも民衆の娯楽の対象としての寺が伺われるように思う。



2007年のインターネット全盛の時代ににどっぷり使った自分が、
老師の法話に「へー」と耳を傾ける。
江戸時代にタイムスリップしたような感覚だった。