遠い太鼓

僕は小説をめったに読まない。
ということで、日本の有名作家であっても小説家はあまり知らない。


でも、村上春樹は知っていた。
読んだこともあった。
ノルウェーの森」「スプートニクの恋人」。
読んで1ヶ月近く鬱なかんじになってしまい、それ以来、村上春樹はキケンと認定して避けていたのだ。
(それだけ世界観にどっぷりと、はまってしまったからだけど。
これはある種の才能なのかもしれないが、活かし方が分からない。)



「遠い太鼓」は、梅田望夫さんの愛読書ということで買ってみたらエッセイだったので一安心。



旅エッセイは、椎名誠の大ファンの僕としては大歓迎のジャンル。
ただ、椎名節になれている僕としては、やはり村上春樹は少し固い、冷たい感じがした。
(でもそれは僕自身の冷めた感覚と似ているように感じていたのだけれど。)


1/3ほど読み進めた段階で、十分にはまり、一緒にヨーロッパの国々を旅する。
イタリア人のいい加減さや、パレルモの町の汚さに(を思い浮かべて)辟易とする。
そんな「旅」をさせてもらった感じ。


特に教訓めいたものは、ない。
40歳前にあるなんとなくの焦り、や、言葉にできないもどかしさ、
というようなものを感じる。それは30歳前の今の僕も感じるものだと思う。レベルは違うにせよ。



悩む時は何をしていても悩むのだろう。
旅に出ていても出ていなくても、身体はどこにあろうとも、そういう疎外感、閉塞感というものから
完全に開放されるようなことはないのかもしれない。


でも、「異国の地」で生活することで
村上春樹はちょっとずつそこを歩んで行ったのではないかと思う。
物理的にどの国にいたというのではなく、「異国の地」にいたのだと思う。

歳を取ることはそれほど怖くはなかった。
歳を取ることは僕の責任ではない。
誰だって歳は取る。
それは仕方のないことだ。
僕が怖かったのは、あるひとつの時期に達成されるべき何かが達成されないままに終わってしまうことだった。
それは仕方のないことではない。

そう、仕方のないことではない。
自分の責任なのだ、これは。


遠くから聞こえてくる太鼓の音は、ずいぶん長いこと聞いてきた気がする。
旅にでたいという衝動も、1年くらい抑えている。
それを決めるのは、自分の責任なのだ。