好きを貫く、けものみち


「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法
を読んでいて、なるほど、と強く思った。
そうかもしんない。自分はまた一過性の熱にうなされてるのかもしれないと思った。


ただ、少し違うことを考えたのは、
僕が「ウェブ時代をゆく」を読んで熱くなったのは、
その「けものみち」という提案が、何か一つのことに特化しないでもいいよというような提案に思えたということ。


僕は飽きっぽくはないけど、とにかく目移りがしやすくっていろいろなことをしたがるので、
何か一つを極めるということがホントに苦手だと思う。
(一回気に入ったものは何年間もずっと好きではあるけど、一つ一つの密度を濃くするというのが苦手。)



で、確かに「好きを極める」的な生き方というのは
自分にはあまり合っていないなあと。
それと同時に、こういうのが盛り上がっている風潮って、
「夢を持て」的な風潮に似ているなぁと思ってはいた。


今から10年前になるが、高校生の頃の僕は、本当にこのことで悩んでいた。
「夢をもて」
部活も引退して、大学も決まっていたので、
特に何かに追い立てられることもない緩い状況で、何をしたらいいか。


偉い人たちの話やらを読むと、当時はみな
「夢を持て。その夢に向かってまっすぐに進め」
的な話がとても多かったように思う。(少なくとも僕はそう感じていた。)


でも、そんな夢なんてみつかっていなくって、
無理矢理何かを「夢」にしてしばらくやってみる、という繰り返しが上手くいかなくって、
なんかものすごくもどかしい日々を送っていた。


今もこれにちょっと似ているかもしれない。
「好きを極める」というのは、「好き」が何か分かっていない人にとっては結構厳しい状況だ。
だから僕なりに解釈した「けものみち」は、
そんな僕でも、そのときそのときで面白いものを見つけていけばいいんじゃないか、そんな風に思えた。
それでどうにか食べていけるようなたくましさを身につけていくこと、
今はそういう風に考えている。


たった一つの「好き」を貫ぬけるのはそれだけで十分な才能であって、
それだけで十分に対価をもらえることだと思う
そして、それだけに高く険しいということなのだと思う。
で、じゃぁ、そうじゃないフツウの人は生きてる価値ないのか、というとそうでもないよと。
普通の人は、普通の人なりにいろいろなこと組み合わせて、
その総合力で勝負していけと。(勝ち負けじゃないかもしんないけど。)
それはそれでありなんじゃないかなと。
で、フツウというのはそれはそれで幸せなことなのではないかと。
(フツウというのは、有名になるとかならないとかいうような意味で。)



なので結局
「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法の方と
結論は同じなんじゃないかと思うのだけど、
その時その時で興味持ったらとりあえず突っ走ってみればいいのかなと。
そんな風に思いました。


僕はまだ全然 実績ないけど、とりあえずやってみることからやってみようかなと思いました。