主観・客観


風邪をひいてしまった。


ので、(一日休む余裕も無く)今日は午前中だけ休みを取った。
出勤前に、ワイドショーを眺めていると
姉歯建築士逮捕のニュースばかり。


こういうのはウンザリだなぁ、
それにしても、なぜ姉歯氏だけをこんなに執拗に取り上げるのか。
他12名、とか言ってるのはなんでだよ、とか
姉歯という苗字が響きがよかったためか、
わりと端正な顔立ちをしているから格好の餌食となったのか、
適度に喋ってしまったから、記事をつくりやすいか、とかとか


色々考えながら、相当冷めた視線でテレビを眺めていた。


耐震強度偽装 ⇒ 姉歯建築士」という図式は、
すっかり日本中に浸透している。
そういうミームが、ものすごいスピードで拡大・伝播したというわけだ。



なぜだろう。
テレビ・新聞といった主要メディアがいっせいに報道を行ったためだろうか。
なぜこの事件をこれほど取り上げたのか。
それは、大衆が見たがるニュースだからだ。
だってテレビ局も、新聞社も、どんなに社会的義務とか正義とか言っても、
究極的にはみんな広告業なのだから、視聴率を上げることが至上命題だ。


それはそれでいい。
それがビジネスなのだから、と割り切って考えれば至極まっとうだ。


問題は、受け手側だ。
テレビ・新聞で報道していることを、100%信じてしまう人がなぜこんなに多いのか。


もうちょっと客観的にみるようにすればいいのになぁ、と考えていたところでふと思った。


僕は、冒頭で書いたようにかなり冷めた目で背後の事情とかを色々考えたり、
同じニュースだけど、局によって悪者にしようと写している人が違うなぁとか思ったり、
わりと客観的にみていたように思う。
これは僕に耐性というか免疫がついているからだと思う。
数年前だったら、
こんなこと考えずに「姉歯さんは悪い人だ!」と思っていたように思う。


客観の反対は主観だ。
では、いわゆる大衆の「偽装⇒姉歯」的な人は主観的にみているのだろうか?


そうでもないと思う。
この件で、もっとも主観的であるマンション住民の方々のインタビューを見ていて、
「だれが逮捕されようが、我々の問題にはまったく関係ない。」
と言っていた。


もっともだと思う。
これが一番本質的な現状ではなかろうか。


マスコミは視聴率のために「逮捕劇」というドラマを仕立て上げているが、
耐震強度が偽装されていたこと(これもただの事実にすぎず、色々な見方があると思う)
に対する問題解決を考えているような報道は、割合で言うとあまりに少ない。


つまり、一般大衆は「主観」にも「客観」にもいない。
その間にいるのだ。
第三者的というか、無責任な立場に。


ミーム―心を操るウイルス

ミーム―心を操るウイルス

にあるように、心を操るミームに巧みに踊らされている感がある。

危険、食べ物、生殖を含んだミームは、他のミームよりも早く広まる。
これは、私たちがそういったものにより多くの注意を払うように仕組まれているからである。
つまり私たちは、これらに対する感情の「ボタン」をもっているのだ。


ここで記されているボタンというは、
本能的に行動を起こしてしまう、
もしくはある心理状態になってしまう引き金のスイッチと言う意味だが、
報道メディアは、ビジネスとしてこのボタンを押すことに長けている。


第三者的、無責任な、心理的防壁がない状態で
この本能的な情動を誘起するようなボタンを押すのだ。
「あなたの住んでいる家、危険かもしれないですよ。」というメッセージ。
あとは勧善懲悪的な逮捕シーン。


姉歯氏を擁護するつもりもないし(そもそもこんなに頻発していること自体よくない)、
マスコミはダメだとか言う気もまったく無い。
何千万単位の人間の心をある方向に向かせるミーム技術に、感心しているのだ。


そういえば、
テレビは普及してからまだ50年くらいしか経っていない(正確には知らないが)。
そう考えると、たかが数十年の間に培われたミームに対する技術・ノウハウはすごい。
そもそもミーム技術に長けていることは、成功の元だ。


トップセールスマンのノウハウって、ようはこのミーム技術だ。
「お金を払おう」という感情を引き起こさせるための
ミーム技術を身につけていれば、きっとお金持ちになれるのだ。

ユダヤ人大富豪の教え 幸せな金持ちになる17の秘訣 (だいわ文庫)

ユダヤ人大富豪の教え 幸せな金持ちになる17の秘訣 (だいわ文庫)

の中で、

思考が人生を形作り、感情が人生をコントロールしている

という一節がある。


これからのインターネットメディア時代、
また新しいミームを操る技術がうまれてくることだろう。


まだ僕には感情と思考の違いをはっきりと定義できていないが、
ネット社会の歴史を考えると、面白い。


できたてのころは、ただのデータ・情報しかなかった。
感情も、思考もない。(ここで言う思考は、理想とか夢見る力とかそういうもの)


人々がネットに慣れ始めて、感情表現を始めた。
2chとかで、感情と感情のぶつかり合いが始まった。


それからブログの時代に入ったネット社会は
感情のぶつかり合いから、思考の相互作用の時代に入ったような気がする。
ちょっと美化しすぎだけど。


ミームのネットワークも進化しているといえ、
だいぶ違うものになってきているのだろう。


ちょっと話が飛んだが、
ネット社会には、これまでとまた違ったミーム技術が必要なはずで、
それには少し人類をよい方向に進めるような、そういうものを期待してしまう。