ハイ・コンセプト(2)

つづき。

ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代

ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代


今日は2番目。
(デザイン、物語、調和、共感、遊び、生きがい)


「物語」について。
個人的には、一番興奮して呼んだ箇所。

誰でもすぐにタダで検索できる時代の「情報の価値」

これがちょうど最近悩んでいるテーマの1つだったこともある。


ロジカルシンキング全盛の時代に、脳科学、認知科学的見地からインパクトのある見解。

多くの場合、私たちは物語としてものごとを覚えているからである。
「語りによるイメージ作り、すなわち"物語"は、思考の根本的な道具である。」
(中略)
「理性的な能力はこれ(物語)に依存している。
物語は将来を見通し、予測し、計画を立て、説明するために最も大切な方法である。
・・・私たちの経験や知識、思考の大部分は物語という形で構成されているのだ。
(中略)
「物語」はデザインと同様、人間の経験にとって欠かせないものである。
前章で触れた、腰布一枚の有史以前の男の話を思い出してほしい。
石を岩でこすって研ぐことでデザイナーとなった人間の話だ。
よるになって住処に戻ると、男と仲間たちは、たき火を囲んで
「サーベルタイガーから逃れた話」とか、「洞窟を修繕した話」などを語り合ったことだろう。
彼の脳の中にも、私たちと同じような「物語文法」があり、
一連の論理的な事柄としてではなく、経験のパターンとして世の中を理解していたのだろう。
物語を通じて自分を説明し、他人と接触していたのである。


これって、ミームの伝播の仕方まんまの話なのだが、
人間の脳は、ミームの伝播がしやすいように進化してきている( ミーム・マシーンとしての私〈上〉 )。
今日あった出来事を、他人に伝える際に
「岩、サーベルタイガー、出会った、逃げた」
というよりも、
「今日、狩をしていたら岩場でばったりサーベルタイガーに出くわして、
あわや食われるところだったけど、すんでのところで逃げおおせたよ。」
という話の方が、話しやすい。聞きやすい。聞いた話を誰かに話しやすい。


それはわれわれの脳が、もしくは言語体系が、
人類が言語を獲得してからそのように進化してきたからである。
インターネットが普及して、まだ10年ほどしか経っていない。
われわれがインターネットという集団知にアクセスする方法は
「キーワード」検索が今はメインであるが、われわれの脳は、まだそれよりも「物語」に慣れているということだ。


Googleが普及して、「辞書」の価値が大いに下がったような気がする。
キーワードや、その意味は、「タダ」になったのだから。

ごく最近まで、世界各国のデータや情報の大半は、
書庫の棚の上でほこりをかぶり、山積みにされていた。
残りの情報は、潤沢な資金を持つ研究機関しか購入できない占有データベースに保存され、
経験を積んだ専門家にしかアクセスできないようになっていた。
だが、今では、「事実」はどこでもほとんど無料で、瞬時に手に入れることができる。

「瞬時に」「無料で」というところがキー。



同じように、ブログが普及して、「文章(物語)」の価値も大いに下がったという議論が最近よくされている。
だが、そうではないと思う。
ここでいう「価値」が、金銭的対価である場合、文章の単価は確かに下がった。
だが、「文章」を読む・書く機会は、ブログの普及によって大幅に増えている。
つまり、供給過多の状態になっているだけともいえる。
資本主義的な競争の結果、金銭的価値は下がっているともいえないか。


Amazonを見る限り、本の売り上げがネット社会になって落ち込んだというようには思えない。


では、「価値」を、時間の投資するに足る対象というように捉えればどうか。



全ての人間が平等に持っている資産の1つは、「時間」だ。
どんな行為をするのにも「時間」はかかる。
どんな人間も、「時間」を毎日切り売りして、引き換えになんらかの行為をして、生活しているのだ。
なので、「時間」を投資する対象は、ある程度普遍的な価値といえよう。
(「お金」も、そのほとんどが「時間」と交換することであるともいえる。)


本を読むのには、個人差こそあれ、けっこう時間がかかる。
ライバルとしては、テレビだったり、ゲームだったり、食事だったりデートだったりスポーツだったり、ケータイだったり、
こんな数多のライバルの中から「文章(物語)」を読む/書くという行為はインターネットの出現以降、明らかに増えている。
僕がこんな文章を書くようになったり、こんな文章を読んでくれる誰かがいたりするわけだ。

「文章(物語)」を読み/書きすることの普遍的な価値は、上がっているのではないか。


そう思うと、

事実というのは、誰にでも瞬時にアクセスできるようになると、
一つひとつの事実の価値は低くなってしまうものなのだ。
そこで、それらの事実を「文脈」に取り入れ、「感情的インパクト」を相手に伝える能力が、ますます重要になってくるのだ。
そして、この「感情によって豊かになった文脈」こそ、
物を語る能力の本質なのである。


物語の話は長くなりそうだ。。。