ハイ・コンセプト(7)


ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代

ハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代

最後は、「生きがい」。

私たちの多くが物質的ニーズを満たされている(時には過剰に満たされている)時代だからこそ、
いっそう精神性の価値が高まっているのかもしれない。


人間の欲望には限りはなく、人間が満たされるということはないのではないだろうか。
瞬間的に満たされる、幸福感につつまれるということはあるだろう。
だが、ずっと幸福である、という状態は、おそらく生物学的にありえない。
「適応」という能力の、代償である。


では、どういう風に生きればいいのか。
これもうちの社長が言ったことだが、
「山登りにおいて幸せなのは頂上に立った瞬間ではなく、登っている過程だ」
ということ。
登っている最中は、つらいこともあったりするが
「なんらかのモチベーション」で、人は登る。
そして頂上に立った瞬間に幸福感を満喫し、
また少しきつい下りの途につき、しばし休息して、また山に登る。


このサイクルを仕事で達成できるならば、
きっと幸せだろうなと思う。
問題はこの、「しばし休息」というのが必ず必要であるということ。
山から下りた瞬間に次の山に登らなくてはいけない状況というのは、
山登りの楽しさを奪ってしまうように思う。ノルマ・タスクとみなしてしまうと。


この「しばし休息」期間は、人によってまちまちだろう。
休息の仕方も、人によってまちまちだと思う。
ぐたーっと寝なくては休息にはならない人もいれば、
軽く近所を散歩している方が休息になるという人もいる。
「山のぼり」だって、登り方は各人各様だ。
一人で登りたい人もいれば、チームで登りたい人もいる。


この各人のわがままを「組織」が満たしてやることができないから、
理想の会社・職場というものはなかなか無いのではないかなと思う。

お金だけでなく、働く意義を与えてほしいと職場に要望する従業員が徐々に増えていくのだ。

「山」は自分で見つけられた方が幸せだ。
だが、自分で見つけられない人もたくさんいる。
僕も自分自身、見つけているのか、今登っている途中のものが果たしてそうなのか分からない。
「物語」を語って、「山」に気づかせてあげることができる人は、
自ずとリーダーになっていくのだろう。
もちろん、本当の「山」を見つけるという能力も必要だが。



著者は「迷路」を歩くことを薦めている。

迷路(ラビリンス)は、渦巻状の道を歩くためのものだ。
そこに足を踏み入れた人の最終目標は、道に沿って中央まで進み、
そこで泊まって回れ右して、また戻ってくることである。
ずっと自分のペースで歩いてかまわない。

「迷路」は「迷宮(メイズ)」と違って、このような効用があるものだという。

迷宮は解決するための分析パズルだが、迷路は動く瞑想だ。
迷宮では方向感覚が失われるが、迷路は中央に向かっている。
迷宮では道に迷うが、迷路では自分を見失うことがある。
迷宮は左脳を働かせ、迷路は右脳を開放する。


欧米にはこのような迷路が公共のばにあるらしい。
日本にもあるのだろうか。。



本書の最後をしめくくる一節が印象的だった。

もちろん、迷路が世界を救ってくれるわけではない。
私が本書で述べた六つのセンスだって同じだ。
(中略)
やりがいがあって簡単な仕事などほとんどない。
だが、そのこと自身が大事なことなのかもしれない。
(中略)
むしろ人生とは迷路の上を歩くのに似ている。
そこでは旅すること自体が、目的なのだ。

中田英も「旅」をキーワードにしていたのを思い出す。
自分自身、旅が、特に行く先も定めない、放浪旅が好きだ。
見知らぬ知を自分の足で歩き、行く先々でなにかと起きる問題に
日本語はおろか英語も通じないような場所で、
自分の身一つでなんとかそれらを乗り切っていく。
たまに予期もしないような出会い、僥倖に出くわす。


旅の醍醐味は、観光地でもなく、行った先で撮った写真でもなく、
そうした一瞬一瞬の思い出のつながりだと思っている。
旅の目的は、旅することなのだ。


そういう人生を生きていきたいものである。