日本語が亡びるとき

遅ればせながら、やっと読了。
英語の世紀が始まることへの覚悟というか強迫感というかを感じつつも、
豊かな日本語に触れることの豊かさを思い出させてくれた一冊だった。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

内容については、数多の書評がでていそうなので割愛。


近代日本文学の奇跡という著者の熱意に気圧されて、
あの時代の文学をもっと読んでみたいと思った。

僕の日本語での原体験

幸運なことに、夏目漱石の有名どころはいくらか読んだことがある。
文中に何度も登場する「三四郎」は、実家が作中の舞台である本郷に近いということもあって、二回くらい読んだ気がする。もう十年くらい前の話にはなるが。とはいえ、その頃の読中感を思い出せば、

西洋語に訳された漱石はたとえ優れた訳でも漱石ではない。日本語を読める外国人のあいだでの漱石の評価は高い。よく日本語を読める人のあいだでほど高い。だが、日本語を読めない外国人のあいだで漱石はまったく評価されていない。

という著者の嘆きが少し分かる気がする。
僕の原体験なので偏見かもしれないけど、
漱石の文章を読んでいると、
明治のモダンな、ちょっと気障なエリート達の会話を
横で盗み聞いているような雰囲気を感じられて、
それがとても快かった記憶がある。


こういう感覚は、幼児時代に明治生まれの祖父が
パイプをくゆらせながら僕を膝にのせて仏教やらギリシャ神話やら、
悲しいことに内容は覚えていないけれど、たくさんの夢のような話をしてくれた、
小さい頃の幸せな記憶につながっているのかもしれない。


あと、僕は小/中学校と国語の時間、授業は上の空でずっと国語便覧を見ていた。
平安時代の短歌とその屏風絵を眺めたり、鎌倉時代の戦記と鎧兜の写真を眺めて、
その時代にタイムスリップした空想して楽しんでいた。
そういうのが大好きだった(社会の時間は歴史便覧)。
今でも古文などを読むことはきらいじゃないのは、
このときの経験が頭に刷り込まれているからなのかな。



なんにせよ、日本の情緒はやはり、日本語でしか表わせないように思う。



日本語は、

表記法を使い分けるのが意味の生産にかかわるというのは、それとは別のレベルの話で、日本語独特のことである。

という点で、素晴らしいのだなと。
例が分かりやすくて、思わず微笑んでしまったのだけど

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。


という例の萩原朔太郎の詩も、最初の二行を


仏蘭西へ行きたしと思へども
仏蘭西はあまりに遠し


に変えてしまうと、朔太郎の詩のなよなよと頼りなげな詩情が消えてしまう。


フランスへ行きたしと思へども
フランスはあまりに遠し


となるとあたりまえの心情をあたりまえに訴えているだけになってしまう。だが、右のような差は、日本語を知らない人にはわかりえない。
 蛇足だが、この詩を口語体にして、


フランスへ行きたいと思うが
フランスはあまりに遠い
せめて新しい背広をきて
きままな旅にでてみよう


に変えてしまったら、JRの広告以下である。


というのは本当にその通りだなと。


この文節を漢字にしようか平仮名にしようか、という選択は
日本語で文章を書いている時に常々考えていることだ。
僕は日頃
「この経験を生かして」というような文章を見ると
「この経験を活かして」なんじゃないかな、と気になってしまう。


「生かす」というのに敢えて意味を持たせているのかな、
とか思って自分を納得させているのだけど、
多分大多数の人はPCの変換候補の一番にでてくるものを選んでるんではないかと。


せっかくこんなに味わい深い日本語の表記法なので、
それはやはり失われてほしくはないなと、本当に思う。

ウェブ文章においての淘汰圧

ちょっと話が逸れ気味だけど、
現代人が、「モノを書く」という作業をペンでなくPCでやるようになった
というのも、日本語の衰退に一役買っていると思う。
昔の作家像というのは、
原稿用紙の前にタバコをくゆらせながら万年筆を握りしめて虚空をにらんでいる、
というようなものだけど、今は多くの人がPCだ。


特に僕みたいに趣味的にブログを書いているような人間は、
縦書きですらなくなっている。
こういうのも、100年前の文章とは違ってくる一因だろう。


さらにはこの文章を書いている今、
ブログの一列あたりに入る文字数に気を使いながら書いたりしている。
さらには、ブログの文章なのだからもっと簡潔に、
章立てとか使って、ぱっと趣旨が伝わる文章書かないといかんなー
とか考えたりしている。



横書きや、一列あたりの文字数はさておき、
この「ぱっと趣旨が伝わる簡潔な文章」というのは、<叡智を求める人>向けの文章だ。
普段の心情を書き綴っている今でも、
「ぱっと趣旨が伝わる」ということに気を使っているというのも
「普遍語」へ無意識に流されている力なんだと思う。



というか今回本書を読んでみて、
最近の社会的なライフハックス大流行の背景には、
ウェブが広まって<叡智を求める人>の求める「叡智」が
無限にアクセス可能になってしまった結果、<叡智を求める人々>が、一生を使っても読み切れない「叡智」を
必死に習得しようとしているという結果なんだなぁと思った。


それは「英語ができないといけないという強迫観念」と
もう一つ同じように存在する強迫観念なのかなと。


よりロジカルに、主語述語をはっきりさせて書かないといけない、
というような書き方って、要は英語的な文章になっていく。



インターネットはミームの一台実験場みたいな気がしていて、
ウェブの世界で書かれている文章(ミーム)たちも、
まさにこの影響を受けていると思う。


ブログは読まれるものと、
読まれないものとの人気差がはっきりと数字で表れる。
やっぱり人気がある方が書き手のモチベーションも上がるだろうから、
自然と人が集まりやすいような文章を書く方向に、
無意識ながら流れていくと思う。
一種の淘汰圧。


で、ウェブでブログを好んで読んでいる人達と言うのは
現代の<叡智を求める人>の代表格であろうから、
淘汰の結果のこって行く文章は、これらの人に好かれるような、
普遍語の構造に近いもの(普遍語で書くのが一番だけど)になっていく。


ブログでは日本語は世界的に見ても単独言語として大普及している
という報道があったことに対して考えてみると、
世界中のブログで使われている言語は日本語が一番多い - GIGAZINE
とはいえ、そこで普及している日本語って、
より「普遍語」に近い日本語なのかもしれないな、なんて思ってしまった。