情報の絞り方

最近よく情報の絞り方について考える。
これまでは情報を受け取る総量をとにかく増やして、
それをさばくというやり方が一つあるかなと思っていたが、結構限界があるなと。


それと受け取る情報は選ぶべきだという面白い逸話をよく思い出す。僕が好きなミームについての話。

ミーム―心を操るウイルス

ミーム―心を操るウイルス

この本はミームをマインドウィルスとして色々な現象を論じているもの。仮説ベースな話ですが、この考え方は面白いし、考えさせられるものがあった。ちょっと長いですが引用。

 いま、人口六五〇人の南太平洋の島に住んでいるとする。田園詩ふうのパラダイスを取り囲む青い海を泳ぎまわり、食事のために魚をモリで突いて暮らしている。美しい光景である。しかし、約一〇年に一度、たまたまふらりとやってきたサメに人が食べられてしまう。一人の人間がサメに食べられる確率は六五〇〇分の一である。これは、アメリカで一九九二年に自動車事故で死亡する確率と同じである。
 さらに、約二〇年に一度、二人の人間が、魚や異性のことで激しい言い争いになり、どちらかがモリで突き殺されてしまう。この争いで殺される確率は一万三〇〇〇分の一であり、一九九二年のアメリカで銃で殺される確率に等しい。
 これらは悲しいできごとであり、おそらく何に地下は食卓の話題にのぼるだろう。しかしそれが生活のすべてではないし、人生の終りでもない。幸い孤島に住んでいるので、こうしたできごとは発生しては忘れ去られ、島民の生活はそのまま続いていく。
 けれどもここでこのような島が三九万二〇〇〇も存在し、そのすべてCNNならぬINN(アイランド・ニュース・ネットワーク)で結ばれていると想像してみよう。すると人口は二億五四〇〇万人ほどになり、現在のアメリカの人口に近くなる。毎夜、INNはその日の一○七人ものサメの犠牲者と五四人のモリによる死亡者の血なまぐさいニュースを伝えている。突然、人々の世界像がまったく変わってしまう。それまでは何年かに一度、悲劇が起きて平和が乱されていた程度だったのに、犯罪と恐怖でいっぱいの不安地獄に人々は突き落とされてしまうのだ。


これは思考実験だけど、テレビ(マスメディア)が人に及ぼす影響というものを端的に表していると思う。マイケル・ムーアの映画「ボウリングフォーコロンバイン」も、メディアが不安をかきたてることがアメリカをより危険な国にしているという話だった(たしか)。
インターネットの時代になって、情報の伝播はこのころよりももっと早く、多層的になった。そういう時代に、本当であればのどかな南太平洋の島に住んでいたはずの我々はどう生きていくのがいいのか。というのが、今もっている問題意識。
世界中の不幸も、快楽も、二次元的な情報としては一瞬で共有できてしまうようになってしまった現代。60億人ニュースを一身に受け止めることには、人間の身体(脳)は慣れていない。
かといって情報を遮断して生きることは、もうできない。そういう時代に人はどう生きていくのか。ということに興味がある。



僕はここ数カ月テレビを全く見ない生活をしており、さらには自転車通勤のため電車の広告やスポーツ紙の見出しも目にすることがないため、朝青龍の引退事件は主に Twitter で知人たちがつぶやいていることのみ見ていた。そんなに興味もなかったのでネットニュースも殆ど見なかった。その知人たちはほぼ皆が朝青龍に同情的だったため、僕もそういう感じに捉えていた。
それが今日、友人に会うために電車に乗っていたところ、スポーツ誌の一面ではかなり手酷く朝青龍が叩かれているではないか。スポーツ誌は批判・非難が多いとはいえ、こんなに叩かれているとは。。きっとテレビでもひどく叩かれているんだろう。僕は朝青龍が好きでも嫌いでもないが、やはりいい気分はしないものだ。


これは一つの象徴的な事件だなと思う。
とにかく、マスメディアはビジネスをやっているのであって、
よく考えずにそれを受け取るだけになっていると、大切なものを見失って
ただ不安感だけを持ち続ける人になってしまうなと。


同じ事実を知るにせよ、僕は Twitter で知人たちがつぶやいている情報だけを見ていた時の方が幸せな気分だったなあと思った。という意味で、自分が情報を得る収集源は、それが多角的に検証すべき重要なことでない限りは、バイアスがかかってでもTwitter経由で漏れ聞く方が幸せかもしれないと思った。


色んなメディアから色んなニュースを受け取りながら
そんなことを考えさせられた。