天神祭にいってきた(2)

陸渡御

続いて陸渡御が執り行われる。「渡御」というのは神様がお出ましになるという意味らしく、さきほどお神輿の乗り移った神様がこれから町へでるのだ。それに先立って、それぞれの講がそれぞれのスタイルで露払いをする。
これが本当の多種多様で面白かった。


普通のお祭りだとお神輿、あとは山車という程度を想像していたが、さすがに日本三大祭。ほんとうに色々な形がでてくる。
こちらに主な陸渡御列の一覧が写真付きで載っているので見てもらうと分かると思うが、20以上の講がさまざまなやり方で祭りを彩っていく。
天神祭総合情報サイト | 天神祭 神事「陸渡御(りくとぎょ)」


一番目立ったのは催太鼓(もよおしだいこ)。
10代と思われる青年6人が神輿のように担がれた台の上でリズミカルに太鼓を打ち鳴らすというものだ。非常にイキの良いあんちゃんたちが、けっこう練習してきたのだろう、息のあった太鼓をみせてくれる。神輿の担ぎ方もかなり荒っぽいので、普通にやっていると振り落とされてしまいそうな激しさだ。何よりやっている人たちの顔がよい。みんな本当に楽しそうにやっている。また6人の若者と一緒に指揮をとるために大人が同乗しているのだが、この大人も大人らしくてよい。やはり祭りは上下関係がしっかりしているというか大人が若者の手本となっているためか、大人の方も非常に威勢がよく、最近見なくなった気がする活き活きとした大人なのだった。
観ているこちらも元気になってくるような、祭りの先導にふさわしい一団だ。

この催太鼓はやはり人気があるのか、講は1000人ほどで構成されているらしい。その中でこの晴れ舞台で太鼓が叩けるのは6名x6組の36人だけ。若さと楽しさが溢れていたのは、こういった背景があるからかもしれない。


それ以外にも、非常にテンポよく踊りたくなるようなお囃子を鳴らしながら進む地車講や、10頭くらいの獅子舞と100人くらいの舞い、稚児行列に神鉾、牛曳き、馬、榊行列、神輿、、、と一年中の日本中の祭りを全部ここに集めたでえ、どうや!というようなボリューム満点サービス満点なお祭り行列が順々に天満宮を出発していく。
炎天下で日陰もなく座ることもできなかったが、次から次へと違う行列が出てくるのでひたすらそれを見続けた。そのうち一段落したように思ったので、夜の船渡御に備えて少し休憩をしようということで大川の方へ向かったのだった。

つづく

天神祭にいってきた(1)

先日、知人のご縁で夫婦で大阪の天神祭に行ってきた。


大阪の天神祭は、祇園祭神田祭とならんで日本三大祭にあげられている大きな祭りだ。
天神(よく見るとすごい偉い名前だ)、菅原道真の命日である7月25日を本宮、
その前日を宵宮と呼び、各種行事が執り行われる。
25日の本宮には船渡御という、お神輿を船に乗せて大川を上り下りし、
たくさんの船がそのお供をするという珍しい行事がある。
船渡御の際には大川沿いに花火が上がって大変風情があるとのことである。
この船渡御の船には大阪の人もなかなか乗れないとのことなのだが、
今回ご縁があって船渡御の船に乗せていただけるということになり、
夫婦喜んで参上した次第だ。

本宮祭


天神祭の歴史は古い。Wikipediaで歴史を調べてみるとこのように書いてある。
天神祭

天神祭大阪天満宮が鎮座した2年後の天暦5年(951年)6月1日より始まったとされている。この時の祭事は大川より神鉾を流して、流れ着いた場所に祭場を設けて、その祭場で禊払いを行うというものであった。これが鉾流神事の元となり、その祭場に船で奉迎したことが船渡御の起源となっていると伝えられている。

天神祭は続いてきたが、日本三大祭の一つと呼ばれるようになるのは江戸時代からである。安土桃山時代豊臣秀吉より催太鼓を拝領する。寛永末期に祭場(御旅所)を雑喉場(ざこば)に定めたため鉾流神事が取りやめられる。このころ陸渡御の起源となる地車が登場する。慶安2年にでたお触書によると、多くの地車が争って宮入しようとするため順番を決めさせたとある。寛文末期に御旅所が戎島に移転。元禄時代になると御迎人形と呼ばれる2メートルほどの人形を船の穂先に高く飾り付けるようになる。またこの頃より講が形成され日本三大祭りとして呼ばれるようになる。この頃の天神祭の壮大さは『東海道中膝栗毛』や『世間胸算用』の中に見ることが出来る。

僕は関東で育ったので全く知らなかったが、由緒正しいたいへん大きなお祭りなのだ。
船渡御が行われるのは花火の上がる時間帯なので、夕方からなのだが昼から本宮祭という神事に参加できるとのことだったので、昼に大阪天満宮に行った。
大阪天満宮の周りには屋台がたくさん出ており、平日(月曜日)の午後だったが、すでに沢山の人がいた。子供たちはもう夏休みに入っているのかもしれない。タクシーの運転手などからは例年に比べると今年は涼しいと言われてはいたものの、この日は真夏の強い日差しが照りつけていた。祭りが始まるの前の静かな活気
とあいまって、天満宮周辺はすでに熱気を帯びていた。


境内には「講」と呼ばれる祭りを支える団体の、それぞれのご神体を祀っているような待合所がいくつもつくられていた。何々衆、みたいな感じであろうか。またWikiPediaをみてみる。

元々講とは同じ志を持った集団であり、天神祭に奉仕するために、商人の町であった特徴上、米問屋や八百屋など各同業団体などで集まってできた」そうだ。「天神祭で渡御列でご神体をお乗せする御鳳輦講(ごほうれんこう)、鳳神輿の菅南連合鳳神輿講、玉神輿の中央市場玉神輿講、だんじり囃子の地車講(ぢぐるまこう)、獅子舞の天神講、牛曳童児の福梅講、米穀商の御錦蓋講(おきんがいこう)、御神酒講、花商組合の榊講、船渡御の船を世話する御船講(おふねこう)、どんどこ船のどんどこ船講、出版業界の御文庫講、丑日講、天神橋商店街の御羽車講(おはぐるまこう)

などがあって楽しい。

今回僕達がお世話になったのは、祭りに奉納される榊(さかき)を奉納する榊講。おもにお花屋さんの皆さんで運営をされているらしい。非常に分かりやすい。


ここで今回ご招待を頂いた方にお会いしてご挨拶などをしているうちに、本宮祭が始まるとのことで大阪天満宮の神殿の中に上がった。神殿は凸型をしていて広い。御能の舞台に使われたりすることもあるそうだ。ご神体と離れた端にパイプ椅子が並べられて、こちらに座る。奥の方にご神体があるようだが、僕は凸型でいうと右下の部分に座っていたので、奥の方は見えなかった。
そのうち祝詞などが唱えられ始め、本宮祭が始まった。それぞれの講で榊を奉納しているらしく、講の代表者が呼ばれ、神主さんへ奉納する。そして二礼二拍手一礼。その際に講の関係者はその場で立ち上がって二礼二拍手一礼をする。僕も見よう見まねでやってみた。

神霊移御

こうして本宮祭が終わると次は神霊移御。字で書くとなかなか物々しい雰囲気がただよってくるが、日頃神殿の奥に鎮座しているご神霊が、これから祭りで町を練り歩くためにお神輿へ移動するという儀式だ。
まずお供え物をする。お神酒や椀にもられたご飯などが捧げられていたようだった。腹が減っては戦ができぬということなのか、ちょっと不謹慎なことをいえば食べ物で神様を呼んでいるかのような儀式が執り行われる。雅楽の演奏などが続く中、いよいよ移御するときがきた。


神殿の外にはすでに神輿が横付けされている。神殿と神輿の間の1,2メートルくらいの隙間には、周りから見えないように白い布で衝立がされている。さすが超VIPの待遇である。神様が移動されるときには、神殿の中にいる僕達も頭を下げなくてはいけない。つまりは神主さん以外は何人たりとも見ることはできないようになっているのだ。
雅楽の中で、10人くらいいる神主さん達が「あー」「あー」と長い唸り声を次々に上げる。お経のように各人が息継ぎをするタイミングをずらして、声全体は途切れることなく神殿内に響き渡る。
声が徐々に神殿の奥からこちらへ近づいてくる。
なんだか御神霊が移動している感じがあった。
昔の人はもっとリアルにご神霊を感じたのではないだろうか。儀式の威力を感じる。
僕達を招待して下さった方は何度かこの神事に参加しているが、毎回ご神霊が収まっている扉が開いた時に冷気を感じて鳥肌が立つそうだ。女性の方なので、僕よりも霊感などが強いのだろうか。


つづく

天神祭にいってきた(4)

宮入り・還御祭

船から降り、もう一度大阪天満宮へ。陸渡御を終えた各行列がお宮入りをするのをみにいった。
昼からずっと祭りを見ていたので足が棒のようになっていたが、ここでまたそれぞれの講が帰ってくるのをみた。昼に出ていったものが順番に帰ってきているのだから、それはまた絢爛豪華なものがたくさんフルコースでかえってくる。
またみんな宮入りをしてしまうと祭りが終わってしまうから、かなり時間をかけて宮入りをする。同じところで何回もぐるぐるまわって、なかなか入らない。これは足が棒になっている立場からするとなかなか厳しいものであった。妻は途中でダウンし、境内の裏で座って休むことになった。しかしやっている方はもっと大変だろう。昼からずっと踊ったりしつづけているのだから。それでもこの祭りがほんとうに楽しいのだろう。宮入りは時間をかけて行われ続ける。


クライマックスはやはりお神輿だ。
このお神輿は本当に重そうで、もっている若い衆たちの顔に苦痛と疲労が色濃く出ている。僕は一回だけお神輿を担いだことがあるが、あれは本当に肩が痛く、つらいものだった。だからこの若い衆たちの大変そうな顔をみると同情してしまうが、それと同時に彼らは大変な活力で楽しそうにやっているので少し羨ましく見ていた。


天神祭には2つのお神輿が出ている。
玉神輿と鳳神輿だ。2つの神輿が出ると、当然ライバル関係になるだろう。東京の神輿だと喧嘩神輿ということになりそうだが、ここではそういうことはしておらず、ただ宮入りの威勢の良さというところでは張り合っていたと思う。今回は片一方(たしか玉神輿だったと思う)が圧勝していた。まだやるのか、と思わず笑ってしまうくらい何度も境内を周り、重さ2トンのお神輿を腕を伸ばした状態で持ち上げたりと相当な力を見せつけていた。いやはや天晴です。


この宮入りを観ている時にそこにいた天神祭フリークのお兄さんいわく、大阪天満宮には道真公と共に野見宿禰と田力の尊がまつられているとのこと。どこかで聞いたことのある名前だなーと思ってしまう神話の登場人物と、こういうところで時間を超えて触れ合えるのが、祭りという儀式がなせることなのだろう。
歴史が古いだけ合って天神祭は江戸時代の日本というよりは奈良、平安やそれ以前の日本の風景を感じた。催太鼓の衣装は沖縄などでみるようなものだし、地車講のお囃子はバリで聞きそうなリズムだ。
松岡正剛さんが奈良ジア(奈良+アジア)ということをいっていたが、奈良時代平城京シルクロードの最終到達地点ということで、ユーラシア大陸を渡ってきた文化が最後に到着するところであったという。関西にはこういう文化が未だに継承されているのだろう。
東京で生まれ育った僕はやはり「江戸」文化にそまっているのだということに気づいた。関東一体は鎌倉時代頃までは主要な文化はなかったので、いま歴史を感じられるものというと、鎌倉時代以降のものにならざるを得ないのだ。
その点ずっと日本の中心だった関西の懐深い歴史を、今に生きる祭りという形で感じることができた、大変貴重な経験だった。お呼び頂いた方には本当に感謝の限りです。


11時ころに大阪天満宮を出ると、あたりの道路は広範囲で歩行者天国になっており、屋台はまだまだ立ち並び、若者が街を埋め尽くしていた。大阪のあふれる活力を横目に、僕達夫婦は遊び疲れて宿へと帰ったのでした。

天神祭にいってきた(3)

船渡御

夕方になっていよいよ今回の旅のクライマックスである船渡御の時間になった。
川沿いのビアガーデンで休憩していたのだが、風が気持ちよくってついつい時間ギリギリになってしまった。また福島の被災者の方も招待されており、そのかたのお話などを聞いていたので時間を忘れてしまったのだった。その方自身はこういったお祭りに自分だけ参加されることに大変遠慮を感じていらっしゃったそうだが、周りの方の勧めもあって今回いらっしゃったとのこと。天神祭全体でも東北大震災の被災者の方を100名ほど招待していて、そういった方々が少しでも元気づけられるれば、素晴らしいことだと思う。祭りの自粛は電力や警官の配備などで自粛せざるを得ないケースについては理解できるか、本来は庶民を元気づけて一年間の活力を得るためのものなのだから、こうやって開催することはよいことだと思う。



大川沿いの船着場に到着するとすでに船は到着しており、それぞれにびっしりと人が乗り込んでいた。船、というよりは巨大な板の間が川に浮いているというようだった。
船の上には隙間なくパイプ椅子が並べられていて、僕達が載ったときにはもう9割方の人がそこに座ってお弁当を食べていた。僕達も席について、お弁当と缶ビールをもらう。榊講の方々なので、普段はお花屋さんの方々がこの船の運営も切り盛りされている。「花 売ってるほうがよっぽど楽じゃ」と笑いながら言っていた。
今年は例年よりは涼しいということで、風の流れる川の上にいるのは気分が良かった。



もらった弁当を食べていると、マイクスピーカーから司会の挨拶が聴こえてきた。この船には後ろに立派なスピーカーが立てつけてあるのだ。ここで演歌などがBGMで流れていたらこの先の雰囲気もだいぶぶち壊しになっていたかもしれないが、そこは皆さん良いセンスをされているのか、神様のお供船だからなのかBGMはなく、そういった心配はせずに安心して祭りを楽しめた。
僕達の船の司会は、落語家の桂壱之輔さん。非常に軽妙な語り口の方だった。噺家を船に乗せて一杯やりながら川を下る、なんとも粋である。江戸時代の上方の豪商の遊びもこんな感じだったのだろうかなどと思いをはせながら話しを聞いていた。

船渡御の際には100艘ほどの船が出て、それぞれ出発地点がことなっているが大川の中で一本の経路をぐるっと一周する。そのために途中で数多くの船とすれ違うことになる。また途中でいくつもの橋を通り過ぎるが、その橋の上にも人がびっしりといる。(船に乗らない人達からすれば花火大会なのだ。)こうした人たちとすれ違う際には、大阪締めという手拍子を打つことになっているのだという。
手締め - Wikipedia

大阪締めは大阪を中心に行われている手締めである。大阪では「手打ち」という。
一般的な流れ
「打ーちまひょ」 パンパン
「もひとつせ」 パンパン
「祝うて三度」 パパン パン
「おめでとうございますー」パチパチパチ…(拍手)

このレクチャーを最初に受ける。
実際このあとひっきりなしに船や橋とすれ違ったので、5分と開かずに大阪締めをし続けることとなった。とはいえ、ただ船に乗ってぼーっとしているよりもずっと楽しい。こうしたはからいも粋だなあと、初めて触れる上方文化に関心することしきりであった。



船が出航すると、そよそよと川風が流れて大変に気分がよい。宵の口の川をゆっくりと進んでいく。僕はお酒が弱いのですぐに酔いが回ってしまったが、少し川の風にあたっていれば気分は良くなる。川遊びというのはいいものだ。
早速幾つかの橋を超え、船とすれ違って大阪締め。「参加している」感がお手軽に味わえて楽しい。
ここですれ違った船も、陸渡御に負けず劣らず多様であった。
講がだしている船はもちろん、企業や大学が出しているという船もある。錨を降ろして川の真ん中に固定して篝火(かがりび)を焚いている船(篝火講)、船の上に舞台をつくってお能を舞っている船、文楽を演っている船、企業の広告兼舟遊びの船、、、とそれぞれ個性を持った船と次々とすれ違っていく。
神様の船もちゃんといる。お神輿がそのまま船に乗っているのだ。移御された天神様は本当に全部の祭りに参加しているのだった。神様の船とすれ違う場合には大阪締めはせずに、二礼二拍手一礼で通り過ぎる。


そうこうしているうちに、花火が打ち上がった。最初は僕達の船からは花火は見えず、ただ打ち上がった音だけが聞こえてきた。大阪の町の条例で、あまり高くはあげられないらしい。
その代わり花火は川の沿道であげているので、本当に目の前、真上で上がる。僕がこれまで見た中では一番近くで上がった花火だった。シュバッ、シュバッ、シュバッと花火が打ち上がる音が間近に聞こえる。船がちょうどいい位置にくると最高の長めが楽しめる。うーむ、これは本当に贅沢な気分だ。と、次の船がすれ違うので大阪締めをする。また花火を見る。お酒を飲む。また大阪締めをする。。なかなか忙しいが、大満足の船渡御参加だった。


つづく

資本主義とアートとクリエイター 〜 Exit through the gift shop

Banksy という才能に、惚れました。

現代を代表するストリートアーティスト Banksy が作成したドキュメンタリー映画。恥ずかしながらこれまで Banksy を知らなかったのだが、映画の中で出てきた絵をいくつかみただけで、そのセンスのよさには脱帽した。現代アートテロリストと呼ばれ、大英博物館やテート・ブリテンに自分の絵をこっそり展示させたり、イスラエルのガザにある「壁」に命がけで落書きをしたりと、身体を張ったパフォーマンスをしているところも現代アーティストっぽさを感じさせてくれる。(パフォーマンスというよりも大がかりな「イタズラ」をしているような印象が強い。)


作品についてはいくらかたるよりも見た方が早いです。こうやって下手な解説じみたものをやろうとしていると、絵って一瞬でですごい情報量を与えられるんだなあ、と思わされる。
banksy - Google 検索


ちなみに僕はアート全般にそんなに詳しくないですが、村上隆さんの本を読んでいたので色々と解釈ができました。(解釈が合ってるどうかは知りません。)現代アートってよくわからないという方は、こちらを読んでから行った方がよいです。

芸術闘争論

芸術闘争論

なお、映画の内容について書こうとすると、どうしてもネタバレしてしまうので映画を見ていない方は以下見ない方がよいです。 ;)

続きを読む

神話の始まり 映画「100,000年後の安全」

未来のことを、自分たちの責任として考えなくてはいけない時代になったことを思い知らされた。

映画『100,000年後の安全』公式サイト

映画「100,000年後の安全」はフィンランドに建造中の核廃棄物地下保存施設を題材にしたドキュメンタリー映画だ。
地下500メートルほどの深さに1つの街程の広さを持つトンネルをつくり、そこに核廃棄物を「永久」保管する。2020年から操業が開始される予定で、現在はダイナマイトを使った発破でトンネルが掘り進められている。

使用済み核燃料などの核廃棄物は、今後の原子力エネルギー利用に賛成であろうと反対であろうと避けては通れない、すでに存在している解決しなくてはならない問題だ。現在、世界にはおよそ25万トンの核廃棄物が存在している。福島原発でもそうだったように、「中間保存形態」として使用済み核燃料はプールに保存されている。だが地上は様々な要因で環境が変わるため、安全な保管場所ではない。(本作は2010年に作成されたが、はからずも福島原発でそのことが証明されてしまった。)そこで核廃棄物の廃棄場所として宇宙か地下かが考えられるのだが、宇宙へは輸送中に事故があった場合の被害が大きいため、最も安全な廃棄(保管)場所として地下が選ばれたというわけだ。


この映画で焦点を当てられていることが、核利用の是否ではなく、将来の人間への伝承であることだったのが興味深かった。*1
フィンランドの核廃棄物保管施設「オンカロ」に保管される使用済燃料の放射線レベルが、半減期を経て無害なレベルになるには10万年かかるらしい。10万年というのは現代の文明社会の歴史を考えると、途方もなく長い時間だ。今から10万年前は、人間の祖先であるホモ・サピエンスがアフリカを出て世界各地に拡がった頃らしいということを考えると、今から10万年後にどうなっているのかは想像すらできない。
フィンランド政府などでオンカロ計画の際に議論を重ねてきたメンバー達は、10万年後を検討の範囲に入れていた。今から6万年後から氷河期が始まるということで、一度、現在の文明は途絶することを視野に入れていた。その後で、後の人間、知的生命体がオンカロを発見し、掘り起こすことがないようにするにはどうすればよいかを真剣に検討しているのだ。石碑や石室を残し、象形文字や絵を描いて危険を知らせる。こんなSFの出来事が現実になっているということに驚かされた。これは「神話の創世」の瞬間なのだなと改めて思わされる。古代文明が制御できずに地下深くに封印したエネルギー源なんて、ゼノギアス に出てきそうな話だ。


数万年の後、この施設が忘れ去られてしまってから、後の人類がこれを見つけたらどうなるだろうか。今でいえば、巨大な地下ピラミッドが雪原の地下500メートルに発見された!ということになり、世界中が沸きたって発掘をするだろう。ちょうど最近 暗号解読―ロゼッタストーンから量子暗号まで という本を読んでいたので、どんなに複雑で解読不可能とされた暗号でも、ほとんど必ずといっていいほど解読されてきた歴史を思えば、オンカロもいつの日か掘り起こされる日が来るように思える。願わくは、その際に現代の人間が残したメッセージを読み取り、正しい対応をしてほしいものだ。


「正しい対応」技術が進歩して核廃棄物を処理できるようになっているということだ。科学文明の進歩を考えれば100年や200年先には、オンカロは杞憂に過ぎなかったといえることがあるかもしれない。(日本政府の対応を見ていると、そういう問題解決の先送りが感じられる。。)だが自分たちの時代で処理しきれないものを、処理を将来の子供たちに任せて自分たちはその恩恵だけにあずかっていていいのだろうか。もうすでに起きてしまった問題ではあるが、改めて考えさせられる映画だった。


同じ映画館でやっていたこちらが観たくなった。
映画『セヴァンの地球のなおし方』公式サイト

*1:ちなみに本作は各国の映画賞をとっているが、演出がちょっと凝り過ぎていて、個人的にはその辺は好きになれなかった。

自己責任の時代

日本人が変わらないといけないと思った。

この朝生の動画を観ていて、7分30秒くらいから石川正純さんという方(石川迪夫さんではない方の若い方)が、「リスクと保障は分けて考えるべき」という話をされていた。


僕が理解した限りではこういうことかなと思う。

  • 100ミリシーベルト以上の被爆はリスクがあることが科学的に分かっている。
  • 100ミリシーベルト以下の被爆はリスクがあるかどうかは現時点では科学的には分かっていない。
  • 科学的な実証がない以上、政府も誰も指標は出せない。
  • その中で、どういう選択をするかは個々人がすべき。
  • 判断に必要な情報は現在不足しているので、それは開示すべき。


僕は一番まっとうな意見だと思ったけれど、番組内では他の出演者が「それは無理だ」と言って流されてしまった(ように見えた)。


それが無理だというのは、「個人がリスクを考えて判断をする」ということが無理だということなんだろうか。今回の選択は間違えると数十年後の話とはいえ、生命にかかわるものだ。その責任を取れるのは政府しかいないということなんだろうか。


そんな責任だれだってとれないと思う。
でも、みな誰かのせいにしたいのだと思う。
みな責任をとりたくないのだと思う。


でも、それを自分たちで選択をしていかなくてはいけない。
そのために正しいと信じられる知識を得て、正しいと思える判断をして、その結果に対して自分が責任を取らなくてはいけない。子供に関しては親が責任を取らなくてはいけないことになるが、何十年後かに恨み言を言いたいと思った頃には無くなっているような政府に責任を預けるよりは、自分たちで道を決めたほうが僕はいいと思う。


このへんのお上意識がなくなれば、日本はいい方向に進んでいけると思っている。